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シリーズ・ベナンの歴史(11)独立直後の時代―頻発したクーデター:1960~1972年

1960年12月11日に最初の選挙が行なわれた。しかし、独立直後のダオメーはまだ国としては弱い部分もあり、統一ダオメー党(le Parti Dahoméen de l'Unité)は全国民を結束させることはできなかった。独立によって生まれたさまざまな困難は、労働者たちの不満を生むことになった。また学生らがストライキや抗議活動を起こし、1963年10月、独立後初のクーデターが発生した。政権は翌年まで、クリストフ・ソグロ(Christophe Soglo)将軍に戻された。

新たな政治体制、は1964年1月に公表された。スル・ミガン・アピティ(Sourou Migan Apithy)が大統領になり、ジュスタン・アオマデベ・トメタン(Justin Ahomadégbé Tometin)が、副大統領、首相になった。彼らは一緒に、ダホメー民主党(Le Parti Democratique Dahomeen; P.D.D.)を創設した。しかし約2年後、2人はこれ以上理解しあうことはなかった。これ以後は、元首は一人にしなければならなかった。ソグロ将軍はクーデターを起こして反対する者を追い払い、1965年12月に権力を掌握した。

しかし、経済面での課題は無くなることはなかった。国外に追放された多くのダオメー人は戻ってきた。生活は困難を極め、政府は労働者の給与を減らした。その間、人々は現状を改善するため、経済発展計画をあてにした。フランスや他の国々は、様々な分野でダオメー人を援助するため、資金や公務員を送った。

ソグロ将軍の内閣は、実際にはダオメーの人々に支持されなかった。彼は、労働者が不満に思う事を決定し、経済的な問題を増大させた。また、モーリス・クアンデテ(Maurice Kuandété)総司令官率いる軍の青年幹部は、新たなクーデターを1967年12月17日に起こした。アルフォンス・アリー(Alphonse Alley)代理陸軍大佐は、国家元首となった。新たな大統領を任命するため、急遽選挙が行われた。バジル・アジュ(Basile Adjou)氏が勝利したにもかかわらず除名され、軍が任命したエミル・デルラン・ザンス(Emile Derlin Zinsou)氏が、1968年7月17日に国家元首に任命された。ザンス氏は、ダオメー国民に組織的労働を促した。ザンス氏の政党、「ダオメー復活連合(Union pour le Renouveau du Dahomey)」は、限られた支持しか得られなかった。公務員や学生のストライキ、金融措置の悪化、陰謀の発覚などが、国内に大きな不安を生み出した。

1969年12月10日、クーデターでザンス内閣は退陣し、モーリス・クアンデテが将軍となった。かつての指導者であったマガ、アオマテベ、アピティ元大統領は、戻ってくるように促された。3人は、県ごとに国民の意見を求めた。この頃は、市民蜂起の恐れや、ダオメー北部と南部とが分離する危険性もあった。

1970年5月7日から、大統領議会に集まったマガ、アオマデベ、アピティは、国の舵取りを担う者として任命された。これ以後、2年毎に交代で国を運営する三頭政治のような状態になった。マガ氏は、新政権の最初の内閣を形成した。

マガ内閣の2年間は、教師や学生の圧力のもと、ポール・ダルボー(Paul Darboux)を議長とする国民評議会議(Assemblee National Consultative)が開かれた。この会議は、内閣に提案を行うものであった。また、ある軍のグループが、ポール・エミル・ド・スザ将軍の暗殺を企てていた一方で、1972年5月7日に、アオマデベは政府の国家元首として就任した。しかし、アオマデベは国内の治安を回復させることができず、政治体制に対する不満が募り、新たなクーデターを招くことになった。

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