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NPO法人IFE

アフリカニュース

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スワヒリ文化の地を訪ねて ザンジバル島訪問

スワヒリ文化・・・世界史の教科書でも取り上げられることのある、数少ないアフリカに関する世界史の事項の一つである。「スワヒリ」とは、「海岸、岸辺」を意味するアラビア語の単語「サーヒル」が変化したものである。そして、スワヒリ文化のスワヒリが意味するところとは、ソマリア南部からケニア、タンザニア、モザンビーク北部までのアフリカ東部の海岸を指すのである。この地域には、アフリカ固有の文化とアラブ・イスラム文化が混合した独特の文化が存在する。

ザンジバル島ストーンタウンの街並みこれらの地域は、8世紀ごろに始まったとされるインド洋貿易で栄えることになった。当初は東アフリカ沿岸部の諸都市と、アラビア半島との交流といった小規模のものであった。後に東アフリカ沿岸部の諸都市では、内陸部との交易が始められた。象牙や金などのアフリカ内陸部の産品が、スワヒリ沿岸諸都市を経由し、アラビア半島にとどまらず、ペルシャ、インド、スリランカ、中国等とも貿易が行われた。こういった地域からの産品もまた、アフリカにもたらされたのである。

こうしたインド洋を拠点に広がった貿易で栄えた場所の一つが、ザンジバル島である。ザンジバル島は、タンザニアの東方40kmの沖合に浮かぶ島で、インド洋貿易が行われていたころは、拠点港の一つとして大きな役割を担っていた。この島は15世紀末からはポルトガル、16世紀からのアラブ(オマーン王国)、19世紀以降のイギリスというように、多くの国の支配を受けてきた。そのため、特に島内のストーンタウンというエリアでは、アフリカ、アラブ、ヨーロッパのそれぞれの様式が混在した建築を垣間見ることができる。このような独特の街並み、および景観は、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

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シリーズ・ベナンの歴史(13)民主主義の時代:1990~1991年

国民会議

1990年2月19日から28日、コトヌーで国民会議が開かれた。この国民会議は、基本的な自由と人権を保障する憲法をつくるものであった。国内、海外から524人のベナン人が集まった。コトヌーの司教であるイシドール・スザ(Isidore de Souza)閣下は、満場一致で国民会議の議長に選ばれた。2月25日、ケレク大統領が同意し、民主的な新しい政治体制が、平和的な方法で生み出された。2月27日、ニセフォール・ソグロ(Nicéphore Soglo)氏が、国民会議で首相に選ばれた。3月1日、ベナン人民共和国はベナン共和国になり、1977年の憲法は廃止された。ソグロ首相が任命され、12ヶ月間の移行期間を制定した。ケレク大統領は大統領からは退いたが、軍の最高司令官として残った。

移行期間は、国民会議によって決められた任務をやり遂げることが求められた。その任務とは、仕事や経済活動の再開、国の権限の回復、公共の場における生活マナーの向上、選挙の準備といった最も重要な諸問題を解決することであった。

新憲法はベナン人による国民投票にゆだねられ、1990年12月2日、大多数の賛成で採択された。

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ブリュッセル航空コトヌーに就航 7月6日から

ベルギーの航空会社「ブリュッセル航空」は、7月6日から、ベルギーの首都ブリュッセルと、ベナン最大都市コトヌーとの週2往復の定期便を就航させ る。現在、ヨーロッパから直接空路でベナンへ行く場合は、パリ発のエールフランス便しかないため、今回の新規就航で、ベナンへの空路の利便性が少し高まる ものと思われる。運航ダイヤは、ブリュッセルを火曜日と土曜日の14:05に出発し、19:35(土曜は22:30)にコトヌーに到着する。コトヌー発の 場合、火曜日と土曜日の20:50にコトヌーを出発し、翌日7:15にブリュッセルに到着する。なお、土曜日に限り、コトヌー発23:45、ブリュッセル 着7:15の便もある。

航空料金はそれほど安いとは言えないが、片道利用、長期滞在での利用では、比較的安い運賃設定となっている。また、 ブリュッセル航空は「SN早割アフリカ」、「アフリカパス」の2種類の割引航空券もある。7月からの就航路線が使えるかどうかは現在不明だが、7月以降使 えるようになれば、こういった割引航空券を使うのも一考である。予約、発券は東京の日本地区総代理店で行えるほか、インターネットでもクレジットカード利 用で予約が可能である。

なお、ブリュッセル航空は、7月5日からガーナのアクラとブルキナファソのワガドゥーグーに、7月9日にもトーゴのロメに定期路線を就航させる。エールフランスの独占に近い状態だった欧州―西アフリカ諸国間の空路が、7月以降大きく変わり始める。

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ベナンに無償資金協力

3月16日、コトヌーで「食糧援助」および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」の2件の無償資金協力に関する書簡の交換が行われた。日本側 は番場正弘駐ベナン大使が、ベナン側はジャン・マリ・エウズ外務・アフリカ統合・フランス語圏・在外ベナン人大臣が出席した。供与額は、2件合わせて12億2千万円である。

昨年起きた洪水で、住民2000世帯以上が避難するなど、人的な被害と、食糧不足も報告されている。今回の「食糧援助」 および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」は、食糧不足に対応するコメの調達に必要な資金を供与するものと、安全な飲料水確保に必要な機材や設 備、および河川の護岸整備など自然災害へ対処する能力を向上させることを目的としたものである。

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シリーズ・ベナンの歴史(12)ケレク政権の時代:1972~1990年

社会主義の導入と国名の変更へ

1972年10月26日、軍隊が権力を掌握し、議会を廃止した。少佐のマティウー・ケレク(Matheieu Kerekou)は、革命軍政府(GM.R.; Gouvernement Militaire Révolutionnaire)という新政府の代表をつとめた。11月30日、ケレクはダオメー国民に「国家建設の施政方針演説」を発表した。

新政権は変革および政治、社会、文化、そして人々の経済、特に労働者、職人、兵士の軍団や農民達の生活において、より多くの公平さをもたらしたかったからである。ケレクは、帝国主義や殖民主義、いわゆる外国による支配を取り消した。

1973年、革命国民会議は、地方の革命委員会と、革命防衛委員会を設置した。思想的かつ愛国的な集会は、義務になった。1974年、改革が村の昔のリーダーらにも広がり、村落や都市の地方自治体を運営する市長や代表らを選出させた。1974年11月30日、アボメーで、国を発展させるため、政権の運営と社会主義の本質が吹き込まれているマルクス=レーニン主義を採用した。1975年11月30日、ダオメーの名前は変わり、ベナン人民共和国となった。緑、黄、赤の旗に変わって、左上に赤い星が置かれた緑地の国旗に取り替えられた。それ以後の祭日は11月30日になった。革命軍政府は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの社会主義国に歩み寄り、セク・トゥーレのギニアをモデルにした。革命軍政府の党が発行する新聞、ラジオでは、「打倒帝国主義」といったスローガンを用い、また絶えず革命の歌を繰り返し流すことで、軍人らを奮い立たせた。

大企業や銀行、保険会社は国営化された。1975年10月には、教育改革が行なわれ、革命主義的な若い先生の育成や、マルクス=レーニン主義の教育も含まれていた。

1975年6月21日、当時の内務大臣、ミッシェル・アイペ(Michel Aikpe)が排除されたため、ダオメー労働組合、学生、教員らがストライキを起こした。政府は力でストライキを食い止めた。労働者らは、「反政府的」であると表明を出し、政府に反対する人達は刑務所に投獄された。ある者は逃げ出し、国外に亡命した。

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シリーズ・ベナンの歴史(11)独立直後の時代―頻発したクーデター:1960~1972年

1960年12月11日に最初の選挙が行なわれた。しかし、独立直後のダオメーはまだ国としては弱い部分もあり、統一ダオメー党(le Parti Dahoméen de l'Unité)は全国民を結束させることはできなかった。独立によって生まれたさまざまな困難は、労働者たちの不満を生むことになった。また学生らがストライキや抗議活動を起こし、1963年10月、独立後初のクーデターが発生した。政権は翌年まで、クリストフ・ソグロ(Christophe Soglo)将軍に戻された。

新たな政治体制、は1964年1月に公表された。スル・ミガン・アピティ(Sourou Migan Apithy)が大統領になり、ジュスタン・アオマデベ・トメタン(Justin Ahomadégbé Tometin)が、副大統領、首相になった。彼らは一緒に、ダホメー民主党(Le Parti Democratique Dahomeen; P.D.D.)を創設した。しかし約2年後、2人はこれ以上理解しあうことはなかった。これ以後は、元首は一人にしなければならなかった。ソグロ将軍はクーデターを起こして反対する者を追い払い、1965年12月に権力を掌握した。

しかし、経済面での課題は無くなることはなかった。国外に追放された多くのダオメー人は戻ってきた。生活は困難を極め、政府は労働者の給与を減らした。その間、人々は現状を改善するため、経済発展計画をあてにした。フランスや他の国々は、様々な分野でダオメー人を援助するため、資金や公務員を送った。

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シリーズ・ベナンの歴史(10)植民地から独立へ

植民地時代の行政

ダオメー植民地は、旧アボメー王国と、フランスに占領された北部地方の領土と合わせて、1894年につくられた。1904年、ダオメー植民地は、他の7 つの植民地と共に、フランス領西アフリカ(Afrique Occidental Française; AOF)に併合された。AOFの総督府は、現在のセネガルのダカールに置かれた。また、ダオメー植民地政府はポルトノボに置かれた。

ダオメーは南部に11区、北部に4区の合計15の行政区に分けられた。これら15の行政区は、150もの郡に分けられ、さらに郡は村に分けられた。村の数は3600であった。行政区の首長は、フランスの総督府が指名した者が担当し、郡の首長は、複数の村から選出された人が職についた。

このような新たな制度が設けられたが、ベナン南部では、伝統的な首長制度が残るケースもあった。アボメー、およびポルトノボでは、郡の首長は、旧王族の中から選出された。一方で、ベナン北部は、長年フランスが進出せず、「真のダオメーはアボメーまで」、との認識もあった。この認識は、鉄道がパラクーまで延びても変わることはなかった。南北ダオメーは互いにほとんど知り合うことなく、政治的、経済的な結びつきも薄かった。また、北部では、ニッキやパラクーなどの一部の強大な権力を持った首長を除いて、首長自身の村の外に権力を及ばせることは無かった。次第に南北の人やモノの動きが大きくなり、経済的に接近はしてきたものの、北部の人は「遅れた」地域ということで、南部の人から軽蔑されるようになった。南部から北部に赴任する人たちの中には、未開の見知らぬ土地に「追放された」と思う人もいた。

植民地期において、近代医療と教育が始められた。アフリカ人とヨーロッパ人の医者、看護師らが医療サービスを提供し、天然痘、マラリア、結核などの重い病気を低減した。子供達は以前よりも死亡することが少なくなり、ダオメーの人口は増加した。また、初等教育も始まったが、公務員、および植民地政府の役人を育てるため、キリスト教の伝道師らが始めたものだった。

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週刊東洋経済 アフリカの特集を掲載

週刊東洋経済(東洋経済新報社)2010年1月9日号では、「徹底解明!地球上最後の新興市場 アフリカの衝撃」と、アフリカに焦点を当てた特集が組まれた。今年は、17のアフリカ諸国が独立した1960年のアフリカの年からちょうど半世紀にあたるほか、6月にはワールドカップ南アフリカ大会が開催される。そのアフリカの経済、および関連情報を、図表や写真をたくさん盛り込み、経済の知識がそれほどなくとも、アフリカ経済の動向をつかむことができる構成になっている。今では無視できなくなった中国の存在、南アフリカの現地事情、日本企業の取り組みなど、今日のアフリカでは、どのような経済動向なのかをつかむことができるだろう。

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在ベナン日本大使館開設

2010年1月1日、在ベナン日本大使館が初めて開設された。これまで、在コートジボワールの日本大使館が兼轄していたが、今後ベナンにおける諸業務が容易になることが期待される。

しかし、IC旅券作成機未設置の大使館であるため、紛失時の再発行など、パスポートの作成に時間が長くかかるという。また、査証(ビザ)関連業務については、今のところ十分な体制が整っておらず、外交・公用目的、在留資格認定証明書の提示があった申請、人道的案件等緊急を要するものに限定して発給される。もうしばらくは在コートジボワール大使館で業務を行なってもらう体制が続く。

これまで在コートジボワール日本大使館は、ベナン以外にもブルキナファソ、ニジェールとトーゴも兼轄していた。ブルキナファソ大使館はすでに新設されたが、トーゴ、ニジェールは引き続き在コートジボワール日本大使館が兼轄することになる。トーゴとニジェールに関しては、地理的にも交通的にも、引き続き不便な状態が続きそうである。

なお、ベナン以外にも、パラオ、エストニア、キルギス、ルワンダの各大使館が2010年1月に開設される。

在ベナン日本大使館 Ambassade du Japon au Bénin

Villa A2, Complexe CEN-SAD, Laico-Benin, Boulevard de la Marina, Cotonou, Bénin
Tel:(+229)21-30-59-86
Fax:(+229)21-30-59-94

○開館時間 — 08:30~13:00、15:00~18:15
○領事業務窓口開館時間 — 09:30~13:00、15:00~17:30

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シリーズ・ベナンの歴史(9)フランスに対するベナン人の抵抗

ベナン南部での抵抗

1889年、グレレ王の死後、王子のコンド(Kondo)は王になり、ベハンゼン(Behanzin)という名前を名乗った。ベハンゼンはどうもうなサメに例えられ、国民から偉大な王ともみなされた。またベハンゼンは、白人を受け入れたくなかったため、フランスの大使、ジャン・バヨル(Jean Bayol)が要求したことを拒否した。

バヨルが戦争する準備をしているとベハンゼンが聞いたとき、彼は大臣らと軍人らを集めて王室会議を開き、占い師のゲデベ(Guèdègbé)を通じ、死んだ王たちに意見を聞くことにした。死んだ王たちは、フランスとの戦争をやめよと答えた。しかし、一部の人たちは、白人は臆病で、強い日光や蚊への抵抗力が無い人たちであると、ベハンゼンが戦争をするようにそそのかした。こうして、ベハンゼンは戦争を始めた。

バヨルはアボメー王国との戦争の準備を始めたが、フランス政府はバヨルに対し、平和にしておくよう勧告した。バヨルは、ベンハンゼンの首長2人を捕まえ、フランスが占領していたコトヌーにアボメー軍を来させるようにした。アホメー軍は、コトヌー近郊のゾグボ(Zogbo)でフランス軍を攻撃した。しかし、フランス側は厳重に護衛していたため、両軍との間で激しい戦いが行われた。アボメー軍が多くの兵力を失い引き下がったが、その後アボメー軍は、ポルトノボのアチュパ(Atchoukpa)を再度攻撃した。フォン人の兵士らは、ポルトノボ王国の王・トファ1世を護衛していた、テリロン(Terrillon)将軍の軍勢に攻撃をくわえた。

その後、ベハンゼンはアボメーに戻り、フランスに対し、毎年2万フランの支払いでコトヌーでの商業を行う権利を与えることに合意した。しかし、フランス人がウィダにとどまることを拒否した。これについてフランス政府は満足せず、再び戦争を始める準備をした。また、フランス人はアボメー王国について調査を行い、兵を上陸させるための埠頭を建設した。

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