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NPO法人IFE

アフリカニュース

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ケニア国立博物館に無償資金協力

11月23日、在ケニア岡田誠司臨時大使とケニアのウフル・ケニヤッタ副首相権財務大臣との間で、「ケニア国立博物館古人類学遺物保存及び視聴覚機材整備計画」に関する交換公文の署名式が行なわれた。この計画は、日本のケニアに対する一般無償資金協力(※)の1つで、6,160万円を限度額とするものである。

ケニア国立博物館は、植民地入植者や自然学者らが、標本の保管、および維持する場所が必要だったことから、1910年に設立された。現在は研究と学問の普及の場であり、ケニアの自然・文化遺産の共有、保護、伝達を行なう役割を担っている。ナイロビをはじめ、全国に18の施設が存在する。

今回の計画は、ケニア国立博物館において、化石保存・研究活動の促進や、教育活動の推進に必要な教育番組作成などの機材整備を行なうものである。また、ケニア国立博物館と日本の研究者との学術交流などの促進が期待されている。

※一般無償資金協力
途上国の政府機関に対して、文化・高等教育振興を目的とした機材供与、施設整備(建設・修復)等の購入に係る資金の贈与を行なうもの。昭和50年度(1975年)から行なわれており、平成18年度までで、128カ国、1324件、総額約570億円の資金協力が行われた。そのうち、アフリカは174件で、総額約68.5億円の資金協力が行なわれた(全体の12%)。

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シリーズ・ベナンの歴史(8)18世紀後半から19世紀のアボメー王国

アゴングロ王(1789-1797)とアダンドザン王(1797-1818)の時代

アゴングロ(Agonglo)はピングラ王の後継者であった。アゴングロ王は、国民を大いに喜ばせる改革を行なった。ウィダの商業を圧迫していた税金を免除したほか、囚人らの処遇を改善した。軍事面で、アゴングロ王は、多くの女性兵士を配置した。また、アボメーの南方のワチ人に対して戦争をした。

アダンドザン(Adandozan)王は、国民を虐待し、奴隷として母親を売るなど、残酷なことをした王であった。アダンドザンは王国の法律をやぶり、またマヒ人やヨルバ人との戦いにも敗れた。大臣らや軍人ら、フランシスコ・ドゥ・スザは王位を狙っていた弟のガッペ(Gakpé)を支援した。時の首相は、王のみが履くサンダルをアダンドザンから剥奪し、ガッペがそのサンダルを履いた。以後、アダンドザンは死ぬまで、禁固刑に処せられた。

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ベナンの来年度予算 見積額で1.27兆CFAフラン

日本でも2010年度予算の審議が報じられているが、ベナンでも2010年度予算について議会で話し合われている。2009年10月20日木曜日、議会に2010年度予算案が出された。この案によると、2010年度予算の見積額はおよそ1.27兆CFAフラン(約2700億円)となり、2009年度予算より2.3%増えた額となった。

ヤイ大統領は、議会において大きな国家の方針と選択肢を述べたのだが、すぐにでもわかるほど方針と現状が一致していない点を、ベナン国民は認めている。また、予算計画では、現実の経済危機とIMFの勧告が考慮されていない。そのため、立法側と行政側との間のさらなる対立が予測される。こういったことから、財務大臣の計画を尊重しない国会議員らにより政府は罠にかけられたようである、との見方もある。2009年度予算作成時のときも、ヤイ大統領の願いは国の現実を考慮していなかったと言われており、2010年度予算に関する議論がしばらく続くと思われる。

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シリーズ・ベナンの歴史(7)17世紀後半から18世紀のアボメー王国

アカバ王(1685-1708)の時代

ウェバジャに敵意を持っていたダンという人物がいた。ダンを排除するために、ウェバジャは息子のウェッス(Houessou)をダンのもとに行かせ、ダンから半ば強制的に何度も土地を奪った。ダンは耐えかね、土地を奪いに来るウェッスを殺害しようとしたが、失敗した。ウェッスは怒ってダンを殺害し、建物を支えるための石をダンの墓の上においた。この建物は、「ダンのお腹の中という意味」の「ダノメ(Dan Homè)」となった。ダノメは、後にダオメーという言葉にかわった。

ウェバジャは死ぬ前に、後継者に息子のウェッスを指名した。1685年、ウェッスが王位に上り詰めたのだが、このときすでに50歳になっていた。ウェッスは自分自身を、ゆっくりと、かつ確実に獲物を狙うカメレオンに例え、アカバ(Akaba)と名乗った。また、刺繍が施された父のサンダルを受け継いだ。

アカバは、ウェメ川の東岸に住んでいたウェメ人と戦争をした。戦争の末期に、アカバは天然痘にかかってしまい、1708年に、10歳の息子、アボ・ササ王子を残して死亡した。アカバの死後、アボメー軍は勝利し、王国はそれ以後ウェメ地域まで広がった。

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経済危機の中の投資:ナイジェリア、ケニアに教育支援

9月17日、国連貿易開発会議の2009年の報告書が発表された。世界同時不況により、2008年の投資額は、2007年より17%、約1兆5千億米ドル(約135兆円)分低下した。2010年の直接投資は緩やかな回復傾向が見られる。

こういう状況ではあるが、日本は投資額を増加させたまれな国のひとつである。

9月中旬には、JICA(国際協力機構)はナイジェリアの基礎・高等教育委員会と協定を結び、ナイジェリアの6つの州で490教室を建設することが計画されている。

また9月23日に、日本はケニアに対し数十億円のローンを行なうことを決めた。これは貧困削減のためのナイロビへの行政が含まれており、初等教育の就学率を上昇させる方針の1つになっている。

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ワールドカップ南アフリカ大会予選:ベナン出場逃す

9月6日にワールドカップ南アフリカ大会予選が行なわれた。グループ4のベナンはマリと対戦し、1-1の引き分けに終わった。同日、グループ4内1位のガーナがスーダンと対戦し、2-0でスーダンを下した。これにより、ガーナはグループ内1位が確定し、ワールドカップの出場が決まった。ベナンは今回もワールドカップの出場の機会を逃した。

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米国国務長官 アフリカ7カ国歴訪

クリントン米国国務長官は、8月4日から11日間の日程で、アフリカのケニア、南アフリカ共和国、アンゴラ、コンゴ民主協和国、ナイジェリア、リベリア、カーボベルデの7カ国を訪問した。

5日にはケニアを訪問し、キバキ大統領とオディンガ首相の両氏と会談した。2007年末の大統領選挙でケニア国内が混乱していたが、今年4月に、大統領選を巡って対立していたキバキ大統領とオディンガ氏が連立政権を組み、国内の情勢は以前よりかなり回復している。ヒラリー国務長官は両氏に対し、より協調していくことを促した。また、いわゆるイスラム過激派が勢力を増すソマリアの隣国ケニアは、アメリカにとって重要な同盟国であり、今も不安要素が残る国内の政情を安定化するようを求めた。

6日はケニアの首都ナイロビで、隣国ソマリアの暫定政府のアハメド大統領と会談した。会談後の記者会見において、アメリカがイスラム系テロ組織・アルカイダとの関係が指摘されているソマリアの武装勢力の掃討に向けて、暫定政府の支援を拡大する旨を明らかにした。

9日は、一昨年に石油輸出国機構(OPEC)の加盟国に承認された、南部アフリカのアンゴラを訪問した。原油輸入の先を中東諸国に依存しないようにするためと、中国の急速なアフリカ進出に対抗するため、資源獲得を視野に入れた二国間関係の強化を図るものと見られている。これはアンゴラに限らず、石油産出国のナイジェリアや、希少金属などで有名なコンゴ民主共和国に対しても同様である。クリントン国務長官は、600万米ドルのアンゴラの農業支援に関する投資に、アメリカの王手石油会社シェブロンと署名した。また、再生可能エネルギーに関する協力関係の強化の約束や、温室効果ガス削減に関わる技術協力について議論を行なった。

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シリーズ・ベナンの歴史(6)アラダ王国と初期のアボメー王国

17~18世紀頃、ベナン南部にはアラダ王国、アボメー王国、ポルトノボ王国、サビ王国といった王国があり、これらの王国を築いた人たちは、トーゴ南東部の街、タド(Tado)からやってきた。

アラダ王国

アラダは王国の首都で、実に多くの人が住んでいたが、住民らは十分な食料を手にしていなかった。また、ある人達は魚が豊富なアヘメ湖周辺に住み始めた。

タドの王の娘であるアリボノンの伝説では、アリボノンが仲間と川に水をくみに行った際にヒョウが現れ、王女一人だけが逃げることができなかった。数ヵ月後、王女はヒョウとの間に息子のアガス(Agassou)をもうけた。アガスは大きく、強い男だった。今度は彼が、多くの力強い、勇気のある子供を複数人もうけた。子供たちは、王に昇進したがっていたが、何人かは排除されてしまった。そのうちの一人のアジャウト(Adjahouto)は、両親と逃げてアラダにたどり着き、王国を築いた。

アジャウトには4人の男の子がいたが、けんかで分かれた。メイヂ(Meidji)はアラダの王となった。彼の兄のゾゼリベ(Zozérigbé)はポルトノボ方面に進んだ。ド・アクリン(Do-Aklin)は、ガニィェ・エス(Ganyé Hessou)とダコ(Dako)の2人の子供を連れて、カナンとボイコンの地方に行った。ダコは後に、人々からダコ・ドヌ(Dako-Donou)と言われれた。

アジャウトによって創設されたアラダ王国は、17世紀~18世紀初頭は輝かしい時代であった。海岸の潟に位置する港を通じて、アラダの王は、ヨーロッパ人と貿易を行い、火薬、繊維、アルコールなどを手に入れた。アラダの王は、それらを奴隷と引き換えにアボメーの王たちに転売した。ヨーロッパ人たちは奴隷を買い、アメリカ大陸のプランテーションで、高値で売った。アメリカ大陸では、奴隷達は死ぬまで重労働を強いられた。

17世紀、アラダの王は、商業関係の制定やカトリック宣教師司祭の派遣を頼むため、スペインのマドリードに大使2名を送った。その後、ポルトガル人やフランス人もアラダを訪れた。フランスからは、ルイ14世によって使者が派遣され、アラダの王に豪華な馬車を送った。アラダの王もまた、盛大なプレゼントをしたルイ14世に大使を送った。

1724年、アラダの繁栄をねたんでいたアボメー王国のアガジャ王は、アラダを攻撃した。サヴィ王国のウッフォン(Houffon)は隣のアラダ王を助けることを拒んだ。アラダ王は捕まえられ、殺された。アボメー軍の兵は、アラダ軍8000人を捕虜にした。これ以後、アラダ王国はアボメー王国の一部となった。

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シリーズ・ベナンの歴史(5)ヨルバ人の王国

サベ王国

サベ王国は、ナイジェリアから来たヨルバ人によって建設された。

サルベという人物に指揮されたヨルバ人らは、最初はニッキの近くに移動した。だが、バリバ人に攻撃され、さらに南方に移動した。彼はサベ王のオラジャドゥンを手助けし、敵を追い返した。サベの王は満足し、オラ・オベに王位を与えた。そしてオラ・オベは、サベの丘の上の人々と住むことになった。

オラ・オベが王位についていた頃は、王国を拡大していた。王国に暮らす人は、岩の丘の上に住んでいたため、十分に防衛されていた。また、バリバ人やアボメー人などの敵に対する防衛もできるほか、丘の上から石を転がすこともできた。ただし、農作業で平地に出ていた農民が、アボメーの兵士に捕らえられることはあった。

エコチョニ王の時代、アボメー王国のゲゾ王によって攻撃されていたマヒ人を助けるため、サベに兵士を送ったが、ゲゾ王に処刑された。その後、ゲゾ王がサベ王国を奇襲し、エコチョニ王の首をはねた。サベ王国の国民は、処刑されたか捕まえられた。

フランスによるアボメー王国の占領後、サベの王はフランスに従属することになった。

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