2003年度 ベナン国際交流プログラム
2003年9月から11月にかけて、2名の研修生がベナンから派遣されました。ここでは研修生からのメッセージを紹介します。
日本語訳:NPO法人IFE
ベナン共和国の中学校では、日本について学ぶことはほんの少ししかありません。ですから、個人的には日本という国は、十分な原材料も無いのに経済的に成功した大変不思議な国だなあと思いました。
初めてラジオや"La Nation"という新聞で、日本は東京の立教女学院が18歳から20歳までのベナンの女の子2名に奨学金を提供するという話を聞きました。
奨学金のための試験はベナン全国規模で行われ、たくさんの女の子達がテストを受けました。
最終的に、私はその試験に合格したという知らせをIFE財団からもらいました。IFE財団は、ベナン共和国でゾマホン・ルフィン氏が代表を努めるNGO組織です。
私は合格の知らせを非常に嬉しく思いました。ベナンのような開発途上国の人たちにとって、先進国、特に日本のような国で勉強する機会があるなどと言うことは全く考えられないことだからです。
私達2人は9月23日に東京成田空港に降り立ちました。
以下に、私が日本で見たり聞いたりした事について意見を述べたいと思います。
日本に来ることは私にとって夢のようなことでした。日本のビザをもらうことは「天国」へ行くことよりも難しい。日本へ留学するためには日本人の保証人も必 要ですし、たくさんのお金も必要です。私のうちはそんなに金持ちではありませんから、日本への往復航空券を買うのも大変です。でも私の家族は、そのお金を 9月までに工面してくれました。そういうわけで、私は9月23日に東京に着くことができたのです。
日本では、特に空港で思ったのですが、どこもかしこもきれいでした。
私のホスト・ファミリーのタニヤマさんは大変親切な人で、立派な車で千葉の家まで連れて行って下さいました。
どこへ行っても美しいところばかりです。大きな、そしてすごく大きなビルがたくさんあります。通りにはゴミなどありません。それが私が来たコトヌー市とは大きな違いです。
日本の人々:
成田空港では、残念ながら、入国管理の役人の人たちは私たちに優しくはありませんでした。2〜3時間も足止めされてしまったのです。結局、役人の人たちは アフリカの国、ことにベナン共和国のような国を知らなかったのだと思いました。けれども、私が今まで出会った日本の人たちは、誰一人として成田空港の役人 のような人は居ませんでした。日本の人たちは、本当にたいへん素敵で優しい人たちです。
路上でたまたま会った人たちや、買い物の時に会った人たちさえも、とても親切でした。
ホスト・ファミリーだったタニヤマさん、トダさん、イマムラさん、シロヤさんの家族は言うまでもありません。とってもすごく素敵な人たちでした。
学校の友達はみんな素晴らしい友達でした。私たちを好きになってくれて、かわいがってくれて、助けてくれて、英語ばかりじゃなくて、日本の文化のこともい ろいろ教えてくれました。ホームステイの家庭では、友達は箸を使った食べ方や、日本語の話し方などいろいろと教えてくれました。学校では、私の先生たちば かりではなく、立教女学院の全てのスタッフの人たちも私に親切で、私は今でも幸せに感じています。
大学の学長と小川先生は私達にとっては「救世主」のような方でした。
私のホスト・ファミリーも小川先生と同じように本当に私の「救世主」でした。
日本の人たちの挨拶の仕方は、アフリカの人たちがするのと同じような挨拶の仕方のように思いました。ベナンでは、伝統的なアフリカ式の挨拶をします。ベナンの多くの場所で、おじぎをし、ひざまづいてお互いに挨拶をします。だから日本の人たちの挨拶に似ているのです。
日本語には、ベナンの言葉に似た音のものがあります。
例えば、
- 日本語:イク=行く・逝く
- ベナン語:イク=死ぬこと
日本についてもっとたくさん知りたいことがありますが、およそ2ヶ月で日本の現実をよく知るには短すぎます。特に日本が何故こんなに経済的にも技術的にも世界的に力強い国になったのか知りたいのです。
日本の女性たちは学校で勉強が出来たり、基本的な教育が無料で、幸せだと思います。
ベナンでは、小学校教育であっても授業料を払わなくてはいけません。教育はどんな国の開発においても大変重要なことです。私の国ベナンは、日本のように教育を重視しなくてはなりません。
それが、私が立教女学院で分かったことです。
立教女学院、ありがとうございました。
タニヤマさんのご家族の皆さん、ありがとうございました。
タダさんのご家族の皆さん、ありがとうございました。
イナムラさんのご家族の皆さん、ありがとうございました。
シロヤさんのご家族の皆さん、ありがとうございました。
立教女学院のスタッフの皆さん、ありがとうございました。
立教女学院の先生方、ありがとうございました。
特に小川先生、ありがとうございました。
そして最後に、ベナン共和国・コトヌー市でジャパン・ハウスを運営しているIFE財団のゾマホン・ルフィン様に特別の感謝を申し上げます。
皆様に神のご加護がありますように
ウィルフリーダ・ソトン
私の名前はシルビー・ノーモンと言います。18歳で、ベナン共和国から来ました。
私がどうやって日本への奨学金を獲得したかといいますと、学校がそろそろ終わりになる頃に奨学金の為の試験があると聞きました。その試験は英語で実施され、18歳から20歳までのベナンの人たちが集まるとのことでした。
私はちょっと考えました。そして、私は英語でしゃべることが出来るし、英語で書くことも得意ですから、その試験を受けることにしました。試験場にはたくさ んの人たちが私と同じように準備をして集まっていました。でもついに私はそこで1番になり、日本への奨学金を獲得することになったのです。
私が日本でどんな経験をしたかですが、とてもたくさんある中からいくつかを皆さんにご紹介したいと思います。日本で最初の日、9月23日のことですが、空港で外国人が日本に入るということは実に難しいのだと言うことを知りました。
私がホスト・ファミリーの家に行ったときには、家の中にいる人たちに対して「ただいま」と言って自分が家に帰ってきたことを知らせ、相手が「おかえり」と声を出して帰宅を歓迎する意味のことを言い、それから靴を脱いで家の中に入らなければならないことを知りました。
ある夜、ホスト・ファミリーの家族と一緒にレストランへ夕食に行きました。それは「オコノミヤキ」と呼ばれているものでした。そこで私はテーブルの横で、 テーブルの下に足を丸めて床に座るように言われました。食べる前には「いただきます」と言い、日本人は食べ物を食べる時に箸を使い、そして食後には「ごち そうさまでした」と言わなくてはなりません。それに日本人は「スシ」と呼ばれる生の魚を食べるのです。
2つ目に、私が学校に通った時、日本は人口が大変多くて、ほとんど全部が日本人だということに気づきました。日本人が普通利用する乗り物は主に電車です。私が電車に乗った時、電車の中は人がいっぱいでした。
3つ目に、観光のことで、私が今までに経験したことも見たこともないようなところに、日本の中でたくさん行ったことをお話したいと思います。
ディズニーランドでは、今まで見たこともない物をたくさん見ました。本当にパラダイスに居るようでした。もっとも驚いたのはその人の多さです。そしてその 人たちは写真を撮ったり、楽しんだりしていました。私はおもちゃをたくさん見ましたし、いくつかゲームもしました。そして、コースターと呼ばれるもののと ころへも行きました。それはビッグ・サンダー・マウンテンです。
私は浅草へ行って、いくつかのお寺を見ました。ですが、お寺はどれも昔からの建物ではなく、戦争中に焼けてしまい再建されたものだとのことでした。鎌倉へ も行きました。そこでも大変素晴らしいお寺をたくさん見ることが出来ました。お寺には多くの人たちが参拝に来ていました。いろんな問題などを解決してくれ るのだそうです。例えば、病気や精神的な問題など。私は鎌倉の池の中にいろんな色の魚をみて驚きました。
大仏も見ました。大仏は神様のようにも見えましたが神様ではありません。大仏のお腹の中にも入りました。そこでは写真を撮ることは許されていませんでした。また、観音堂、阿弥陀堂、大黒堂などでも同じでした。美しい花もたくさんありました。
東京の大学のひとつである上智大学に行きましたが、そこではたくさんの人たちがそれぞれの異なるライフ・スタイルを持っているようでした。
そこで、日本の人たちはいろんなライフ・スタイルを持っていることが分かったのです。
大学の隣にカトリックの教会があったので、私は大変嬉しく思いました。
結論を言いますと、今まで私が経験してきたことから、日本という国は滞在するには最高の場所だと思います。
ベナン共和国と日本の相違点や似ているところを以下に述べたいとおもいます。
- 歴史
- 地理
- 経済
- 文化
まず歴史ですが、ベナン共和国の歴史は大変興味深くかつシンプルであり、西アフリカ諸国の中で最良の歴史であるという特徴があります。
私の国の歴史は以下のような時代を含んでいます。
- 植民地支配以前の時代(1600-1900)
- 植民地支配の時代(1900-1960)
- 独立・建国の時代(1960-1991)
- 現代のベナン(1991-現在)
日本の歴史は大変長く、また大変複雑です。日本の歴史には以下の時代が含まれています。
- 江戸時代(最初の時代*)
- 明治時代(1867-1911)
- 大正時代(1911-1925)
- 昭和時代(1925-1988)
- 平成時代(1988-現在)
地理に関しては、ベナン共和国は小さな国で、西はトーゴ、東はナイジェリア、北西はブルキナファソ、北東はニジェール、そして南は大西洋に囲まれています。広さは114,763平方キロメートルです。
北から南まで、ベナンは全長700キロメートル、幅280キロメートルです。
ベナンには主な湖は3つしかありませんが、その最大の湖はラック・ノクエと呼ばれるものです。山は最高で658メートル。気候はふたつで、ひとつは赤道直 下気候で、ベナン南部には2回の乾季と2回の雨季があり、2つ目は熱帯気候で、北部では、乾季が1回と雨季が1回あります。
一方日本では、四方を海に囲まれており、四つの主な島で構成されています。
西は日本海、東は太平洋、北はオホーツク海、南は太平洋です。
北から南まではおよそ1,600キロメートルで、広さは377,000平方キロメートルです。季節は4つあり、ひとつは冬、2番目が春、3番目が夏、4番目は秋です。
政府機関については、ベナンではその執行者がいて、通常は大統領がこれを行います。
大統領は5年毎に選挙で選ばれます。立法府は一院制の国会で83の議席があります。
議員は4年に一度直接選挙によって選出されます。ベナンの首都はポルト・ノボで、最大の都市はコトヌーです。ベナンは12の行政区に分けられています。
一方、日本では、政府というのは内閣のことであり、大統領はいませんが、首相がいます。日本は天皇によって統治されており*、天皇が亡くなるとその息子が天皇の責務を引き継ぐことになっています。その首都は東京で、日本は47の県から構成されています。
経済には関しては、ベナンの主要作物はヤシ油と綿花です。ベナンでの主な交通機関はタクシーとバイクで、普通は「ショーフェ」と「ケケノ」と呼びます。通 貨はCFAと呼ばれるものです。一方日本では、主要生産物はエレクトロニクスに関するもの全てに渡っています。また、日本では自動車やバスなどが多いので すが、主な交通機関は電車です。通貨は円です。日本には10のテレビ・チャンネルと10のラジオのチャンネルがありました。
文化については、人々のことや、食べ物、宗教、服装などを話してみたいと思います。
ベナンの人口は650万人くらいです。主な現地の言語は、南部ではフォン語で、北部ではデンディ語です。また、ベナンでの国際語はフランス語です。
ベナンにはさまざまな食べ物がありますが、主な食べ物は、南部ではWo(ウォ)とトマトスープ、北部ではAgu(アグウ)です。
ウォはトウモロコシで作られていて、アグウはヤム芋で作られています。
宗教は3つあり、ブードゥー教が主たる宗教で、キリスト教やイスラム教もあります。
ベナンにはたくさんの種類の服装がありますが、主なものはBomba(ボンバ)、Bubu(ブブ)、そしてAbada(アバダ)です。
一方日本では、人口は1億2,500万人とすごく多いのです。言語は日本語だけですが、さまざまな食べ物があり、日本のお茶もあります。主な食べ物はス シ、タコヤキ、ニモノ、テンプラ、等です。日本の宗教については、ほとんどの日本人が特定の宗教を信じてはいませんが、キリスト教の人たちもいます。そし て、伝統的な服装としては主にキモノとユカタです。
最後に、簡単に言いますと、日本という国は実に力強い国だということです。だからこそ今のように日本は先進国になり、一方ベナンは我々を助けてくれる他の国々に頼っているからまだ開発途上国なのだと思います。
私を日本に受け入れ、日本で歓迎してくれた立教女学院、ありがとうございました。
お世話になったIFE財団、ありがとうございました。
シルビー・ノーモン
*訳者注:原本には"First Period"とありますが、日本の歴史、時代区分について、本人の錯誤があるようです。また天皇の役割などについても正確な知識はないようです。
なお原本は英語で書かれておりますが、ベナン人にとっての公用語はフランス語、フォン語、ヨルバ語などであることをご留意下さい。