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NPO法人IFE

アフリカニュース

December 2009 の記事一覧

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シリーズ・ベナンの歴史(9)フランスに対するベナン人の抵抗

ベナン南部での抵抗

1889年、グレレ王の死後、王子のコンド(Kondo)は王になり、ベハンゼン(Behanzin)という名前を名乗った。ベハンゼンはどうもうなサメに例えられ、国民から偉大な王ともみなされた。またベハンゼンは、白人を受け入れたくなかったため、フランスの大使、ジャン・バヨル(Jean Bayol)が要求したことを拒否した。

バヨルが戦争する準備をしているとベハンゼンが聞いたとき、彼は大臣らと軍人らを集めて王室会議を開き、占い師のゲデベ(Guèdègbé)を通じ、死んだ王たちに意見を聞くことにした。死んだ王たちは、フランスとの戦争をやめよと答えた。しかし、一部の人たちは、白人は臆病で、強い日光や蚊への抵抗力が無い人たちであると、ベハンゼンが戦争をするようにそそのかした。こうして、ベハンゼンは戦争を始めた。

バヨルはアボメー王国との戦争の準備を始めたが、フランス政府はバヨルに対し、平和にしておくよう勧告した。バヨルは、ベンハンゼンの首長2人を捕まえ、フランスが占領していたコトヌーにアボメー軍を来させるようにした。アホメー軍は、コトヌー近郊のゾグボ(Zogbo)でフランス軍を攻撃した。しかし、フランス側は厳重に護衛していたため、両軍との間で激しい戦いが行われた。アボメー軍が多くの兵力を失い引き下がったが、その後アボメー軍は、ポルトノボのアチュパ(Atchoukpa)を再度攻撃した。フォン人の兵士らは、ポルトノボ王国の王・トファ1世を護衛していた、テリロン(Terrillon)将軍の軍勢に攻撃をくわえた。

その後、ベハンゼンはアボメーに戻り、フランスに対し、毎年2万フランの支払いでコトヌーでの商業を行う権利を与えることに合意した。しかし、フランス人がウィダにとどまることを拒否した。これについてフランス政府は満足せず、再び戦争を始める準備をした。また、フランス人はアボメー王国について調査を行い、兵を上陸させるための埠頭を建設した。

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ケニア国立博物館に無償資金協力

11月23日、在ケニア岡田誠司臨時大使とケニアのウフル・ケニヤッタ副首相権財務大臣との間で、「ケニア国立博物館古人類学遺物保存及び視聴覚機材整備計画」に関する交換公文の署名式が行なわれた。この計画は、日本のケニアに対する一般無償資金協力(※)の1つで、6,160万円を限度額とするものである。

ケニア国立博物館は、植民地入植者や自然学者らが、標本の保管、および維持する場所が必要だったことから、1910年に設立された。現在は研究と学問の普及の場であり、ケニアの自然・文化遺産の共有、保護、伝達を行なう役割を担っている。ナイロビをはじめ、全国に18の施設が存在する。

今回の計画は、ケニア国立博物館において、化石保存・研究活動の促進や、教育活動の推進に必要な教育番組作成などの機材整備を行なうものである。また、ケニア国立博物館と日本の研究者との学術交流などの促進が期待されている。

※一般無償資金協力
途上国の政府機関に対して、文化・高等教育振興を目的とした機材供与、施設整備(建設・修復)等の購入に係る資金の贈与を行なうもの。昭和50年度(1975年)から行なわれており、平成18年度までで、128カ国、1324件、総額約570億円の資金協力が行われた。そのうち、アフリカは174件で、総額約68.5億円の資金協力が行なわれた(全体の12%)。

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