1960年12月11日に最初の選挙が行なわれた。しかし、独立直後のダオメーはまだ国としては弱い部分もあり、統一ダオメー党(le Parti Dahoméen de l'Unité)は全国民を結束させることはできなかった。独立によって生まれたさまざまな困難は、労働者たちの不満を生むことになった。また学生らがストライキや抗議活動を起こし、1963年10月、独立後初のクーデターが発生した。政権は翌年まで、クリストフ・ソグロ(Christophe Soglo)将軍に戻された。
新たな政治体制、は1964年1月に公表された。スル・ミガン・アピティ(Sourou Migan Apithy)が大統領になり、ジュスタン・アオマデベ・トメタン(Justin Ahomadégbé Tometin)が、副大統領、首相になった。彼らは一緒に、ダホメー民主党(Le Parti Democratique Dahomeen; P.D.D.)を創設した。しかし約2年後、2人はこれ以上理解しあうことはなかった。これ以後は、元首は一人にしなければならなかった。ソグロ将軍はクーデターを起こして反対する者を追い払い、1965年12月に権力を掌握した。
しかし、経済面での課題は無くなることはなかった。国外に追放された多くのダオメー人は戻ってきた。生活は困難を極め、政府は労働者の給与を減らした。その間、人々は現状を改善するため、経済発展計画をあてにした。フランスや他の国々は、様々な分野でダオメー人を援助するため、資金や公務員を送った。
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植民地時代の行政
ダオメー植民地は、旧アボメー王国と、フランスに占領された北部地方の領土と合わせて、1894年につくられた。1904年、ダオメー植民地は、他の7 つの植民地と共に、フランス領西アフリカ(Afrique Occidental Française; AOF)に併合された。AOFの総督府は、現在のセネガルのダカールに置かれた。また、ダオメー植民地政府はポルトノボに置かれた。
ダオメーは南部に11区、北部に4区の合計15の行政区に分けられた。これら15の行政区は、150もの郡に分けられ、さらに郡は村に分けられた。村の数は3600であった。行政区の首長は、フランスの総督府が指名した者が担当し、郡の首長は、複数の村から選出された人が職についた。
このような新たな制度が設けられたが、ベナン南部では、伝統的な首長制度が残るケースもあった。アボメー、およびポルトノボでは、郡の首長は、旧王族の中から選出された。一方で、ベナン北部は、長年フランスが進出せず、「真のダオメーはアボメーまで」、との認識もあった。この認識は、鉄道がパラクーまで延びても変わることはなかった。南北ダオメーは互いにほとんど知り合うことなく、政治的、経済的な結びつきも薄かった。また、北部では、ニッキやパラクーなどの一部の強大な権力を持った首長を除いて、首長自身の村の外に権力を及ばせることは無かった。次第に南北の人やモノの動きが大きくなり、経済的に接近はしてきたものの、北部の人は「遅れた」地域ということで、南部の人から軽蔑されるようになった。南部から北部に赴任する人たちの中には、未開の見知らぬ土地に「追放された」と思う人もいた。
植民地期において、近代医療と教育が始められた。アフリカ人とヨーロッパ人の医者、看護師らが医療サービスを提供し、天然痘、マラリア、結核などの重い病気を低減した。子供達は以前よりも死亡することが少なくなり、ダオメーの人口は増加した。また、初等教育も始まったが、公務員、および植民地政府の役人を育てるため、キリスト教の伝道師らが始めたものだった。
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