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シリーズ・ベナンの歴史(9)フランスに対するベナン人の抵抗

ベナン南部での抵抗

1889年、グレレ王の死後、王子のコンド(Kondo)は王になり、ベハンゼン(Behanzin)という名前を名乗った。ベハンゼンはどうもうなサメに例えられ、国民から偉大な王ともみなされた。またベハンゼンは、白人を受け入れたくなかったため、フランスの大使、ジャン・バヨル(Jean Bayol)が要求したことを拒否した。

バヨルが戦争する準備をしているとベハンゼンが聞いたとき、彼は大臣らと軍人らを集めて王室会議を開き、占い師のゲデベ(Guèdègbé)を通じ、死んだ王たちに意見を聞くことにした。死んだ王たちは、フランスとの戦争をやめよと答えた。しかし、一部の人たちは、白人は臆病で、強い日光や蚊への抵抗力が無い人たちであると、ベハンゼンが戦争をするようにそそのかした。こうして、ベハンゼンは戦争を始めた。

バヨルはアボメー王国との戦争の準備を始めたが、フランス政府はバヨルに対し、平和にしておくよう勧告した。バヨルは、ベンハンゼンの首長2人を捕まえ、フランスが占領していたコトヌーにアボメー軍を来させるようにした。アホメー軍は、コトヌー近郊のゾグボ(Zogbo)でフランス軍を攻撃した。しかし、フランス側は厳重に護衛していたため、両軍との間で激しい戦いが行われた。アボメー軍が多くの兵力を失い引き下がったが、その後アボメー軍は、ポルトノボのアチュパ(Atchoukpa)を再度攻撃した。フォン人の兵士らは、ポルトノボ王国の王・トファ1世を護衛していた、テリロン(Terrillon)将軍の軍勢に攻撃をくわえた。

その後、ベハンゼンはアボメーに戻り、フランスに対し、毎年2万フランの支払いでコトヌーでの商業を行う権利を与えることに合意した。しかし、フランス人がウィダにとどまることを拒否した。これについてフランス政府は満足せず、再び戦争を始める準備をした。また、フランス人はアボメー王国について調査を行い、兵を上陸させるための埠頭を建設した。

1892年、ベハンゼンの兵は奴隷を捕まえるために、ワチ人の国、グランポポ地方のほか、近隣のウェメの村々にも侵入した。これに不安を覚えたポルトノボの王は、フランスに通報した。行政官のヴィクトール・バロ(Victor Ballot)は、ベハンゼンに手紙を書き、彼に宣戦を布告した。アボメー王国は2回目のフランスとの戦争に突入した。

陸軍大佐のドッズ(Dodds)が率いるフランス軍は、3000人の兵力があり、皆戦いに慣れていた。また、フランス軍は、ベハンゼンの能力と軍の組織力を熟知していた。一方、ベハンゼンの兄弟であるガウ・グチリ(Gahou Goutchili)が率いるアボメー軍は、12000人の兵力を持っていた。

ドッバ(Dogba)、ポキッサ(Kpokissa)、アパ(Akpa)、カナ(Kana)で、激しい戦いが行なわれた。両陣営で、多くの死者が出た。アマゾンらが活躍したものの、戦況は非常に深刻な状況であった。フランス人はカナを占領し、アボメーに向けて進軍した。ベハンゼンは、先祖らが眠る神聖な王宮をフランス人の手に落としたくはなかった。そのため、ベハンゼンは、王宮の宝物をよそに移させ、アボメーの王宮を焼き払った。ベハンゼンは戦いを続けるために、藪の多いアチェリベ(Atchérigbé)に避難した。

ドッズ将軍はアボメーに入り、フランスの国旗を掲げた。ドッズはベハンゼンから王位を奪い、アボメー王国をフランスの支配下に置いた。フランス軍はベハンゼンを捕まえるために兵の数を増やしたが、捕まえることはできなかった。そのため、ベハンゼンの大臣や親を捕まえ、人質にとった。疲弊したアボメーの国民がこれ以上苦しまないよう、ベハンゼンは自らフランス軍のいるイェゴ(Yègo)に向かった。フランスのドッズ将軍は、ベハンゼンをと彼の妻、そして息子のウァニロ(Ouanilo)を軍艦に乗せ、カリブ諸島のマルティニークに追いやった。その後、アルジェに連れて行かれた。以後、ベハンゼンは一度もアボメーに戻ることなく、1906年にブリダで死亡した。

ベハンゼンの兄弟のグチリ(Goutchili)はアゴリアボ(Agoli-Agbo)という名前で王になった。アボメー王国最後の王となった。王位はわずか6年で奪われた。以後、ダオメーはフランスの植民地となり、フランスから支配されることになった。バロは植民地の統治者として任命された。

ベナン北部での抵抗

行政官のヴィクトール・バロは、ベナン北部の占領を行なった。バロは、バリバ人の首長らに使者を派遣した。使者のデコウー(Decoeur)は、パラク、ジュグー(Djougou)、ニッキ(Nikki)の王と、デヴィーユ(Deville)は、カンディ(Kandi)とクアンデ(Kouandé)の王と、友好条約を結んだ。より強くなるために、フランス人がバリバ人を手助けするだろうと、バリバ人は信じていた。だが、新たに入って来たのはフランスの兵士らだった。バリバ人の首長らは、パラクを除いて、フランス人を追い出すために武装した。だが、多くの人が殺害された。また、 1884年のアフリカ会議で、フランス、イギリス、ドイツが国境線を画定し、現在のベナンの国境を決めた。

やがてベナン北部の人々は、道路や建物の建設、そして兵役をフランス人から強いられるようになった。1915年、バリバ人の首長であるビオ・ゲラ(Bio Guéra)は、フランスに抵抗したものの、増兵したフランス軍によって殺害された。

クワンデ地方出身のカバ(Kaba)も、フランスに抵抗した。彼はアタコラのソンバ人に対し、フランス人の劣悪な待遇に抗議するよう奨励した。しかし、カバは裏切られ、カバもまた殺害された。

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