本文へジャンプする

NPO法人IFE

アフリカニュース

Published on

シリーズ・ベナンの歴史(12)ケレク政権の時代:1972~1990年

社会主義の導入と国名の変更へ

1972年10月26日、軍隊が権力を掌握し、議会を廃止した。少佐のマティウー・ケレク(Matheieu Kerekou)は、革命軍政府(GM.R.; Gouvernement Militaire Révolutionnaire)という新政府の代表をつとめた。11月30日、ケレクはダオメー国民に「国家建設の施政方針演説」を発表した。

新政権は変革および政治、社会、文化、そして人々の経済、特に労働者、職人、兵士の軍団や農民達の生活において、より多くの公平さをもたらしたかったからである。ケレクは、帝国主義や殖民主義、いわゆる外国による支配を取り消した。

1973年、革命国民会議は、地方の革命委員会と、革命防衛委員会を設置した。思想的かつ愛国的な集会は、義務になった。1974年、改革が村の昔のリーダーらにも広がり、村落や都市の地方自治体を運営する市長や代表らを選出させた。1974年11月30日、アボメーで、国を発展させるため、政権の運営と社会主義の本質が吹き込まれているマルクス=レーニン主義を採用した。1975年11月30日、ダオメーの名前は変わり、ベナン人民共和国となった。緑、黄、赤の旗に変わって、左上に赤い星が置かれた緑地の国旗に取り替えられた。それ以後の祭日は11月30日になった。革命軍政府は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの社会主義国に歩み寄り、セク・トゥーレのギニアをモデルにした。革命軍政府の党が発行する新聞、ラジオでは、「打倒帝国主義」といったスローガンを用い、また絶えず革命の歌を繰り返し流すことで、軍人らを奮い立たせた。

大企業や銀行、保険会社は国営化された。1975年10月には、教育改革が行なわれ、革命主義的な若い先生の育成や、マルクス=レーニン主義の教育も含まれていた。

1975年6月21日、当時の内務大臣、ミッシェル・アイペ(Michel Aikpe)が排除されたため、ダオメー労働組合、学生、教員らがストライキを起こした。政府は力でストライキを食い止めた。労働者らは、「反政府的」であると表明を出し、政府に反対する人達は刑務所に投獄された。ある者は逃げ出し、国外に亡命した。

新憲法の制定

1977年8月26日、革命国民会議は基本法、すなわち憲法と国の最初のプランを採用した。1979年11月13日、初のベナン人民革命党国民会議がひらかれ、ケレクを大統領唯一の候補者として任命した。1979年11月20日、336人の議員は、革命国民会議(A.N.R.; l’Assemblée National Révolutionnair)を開くために選出された。アジョ・ボコ・イグナス(Adjo Boco Ignace)が初代ANR代表に選ばれた。

ベナン労働組合国民連合(UNSTB; L’Union National des Syndicat des Travailleurs du Benin)は、ベナン人民革命党の大多数の構成員からなる組織となった。総長であるロマン・ヴィロン・ゲゾが革命国民会議の代表となった。

1984年3月6日、基本法が発効された。この法律は、議員数を196人に戻し、5年ごとに大統領を選ぶものである。

1978年から1985年までは政治が安定していた。また、経済も好調で、国民生産は毎年6%、消費は2%増大した。外国資本の出資も許され、国家予算はバランスが取れたものだった。しかし、1986年から世界的な経済危機と財政の悪化、公金の横領などに直面した。国民、学生、そして労働組合運動は反発した。

社会主義政権の崩壊

革命軍事政権は独裁的になった。マルクス=レーニン主義に国が順応できておらず、政権は神の存在を否定し、民主主義もないがしろにされた。政府に反対するものは、逮捕されたり拷問にかけられたりもした。イデオロギー的な集団と軍は、市民に嫌がらせや迫害を行なった。人々は皆、議論することなく賛同し、強制の下で政権を褒め称えなければならなかった。新しい学校は、就学した若者の人数を増加させたが、仕事の無い卒業生を増大させた。

経済は破綻した。管理不十分だった国営会社や国営銀行も破綻した。資金が、外国へ流れていった。政府は一部の国営会社を民営会社に譲ったり、清算したりした。公務員47,000人の昇進が止り、給与と証券は支払われなかった。政府は、フランスに援助を必要とした。

モラルのある生活が悪化していった。国民のひんしゅくを買うような横領を行なうなどの不正行為も行なわれていた。1988年から、国民は貧困と飢餓に直面した。ベナンの司教達は、収賄、公務員の横領、プロ意識の欠如といった腐敗した政権を告発した。新しい新聞が新たに発行され、大衆の意見を反映させた。1989年4月、教師、学生、労働者らが無期限ストライキを始めた。このストライキは数ヶ月続き、政権を麻痺させた。

1989年11月29日、ケレク大統領は、新しい国の政治的方針の決定を行なうため、次の民主化と国民和解のための国民会議を行なうこと告知した。12月7日、全ての懇願者らが一堂に集まり、ケレク大統領が基本法、政党組織、司法権改革を停止させ、マルクス=レーニン主義を放棄した。12月22日には、国民会議準備委員会が設置された。

« 前の記事 | 次の記事 »

ページトップへ戻る

サイトマップ