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シリーズ・ベナンの歴史(10)植民地から独立へ

植民地時代の行政

ダオメー植民地は、旧アボメー王国と、フランスに占領された北部地方の領土と合わせて、1894年につくられた。1904年、ダオメー植民地は、他の7 つの植民地と共に、フランス領西アフリカ(Afrique Occidental Française; AOF)に併合された。AOFの総督府は、現在のセネガルのダカールに置かれた。また、ダオメー植民地政府はポルトノボに置かれた。

ダオメーは南部に11区、北部に4区の合計15の行政区に分けられた。これら15の行政区は、150もの郡に分けられ、さらに郡は村に分けられた。村の数は3600であった。行政区の首長は、フランスの総督府が指名した者が担当し、郡の首長は、複数の村から選出された人が職についた。

このような新たな制度が設けられたが、ベナン南部では、伝統的な首長制度が残るケースもあった。アボメー、およびポルトノボでは、郡の首長は、旧王族の中から選出された。一方で、ベナン北部は、長年フランスが進出せず、「真のダオメーはアボメーまで」、との認識もあった。この認識は、鉄道がパラクーまで延びても変わることはなかった。南北ダオメーは互いにほとんど知り合うことなく、政治的、経済的な結びつきも薄かった。また、北部では、ニッキやパラクーなどの一部の強大な権力を持った首長を除いて、首長自身の村の外に権力を及ばせることは無かった。次第に南北の人やモノの動きが大きくなり、経済的に接近はしてきたものの、北部の人は「遅れた」地域ということで、南部の人から軽蔑されるようになった。南部から北部に赴任する人たちの中には、未開の見知らぬ土地に「追放された」と思う人もいた。

植民地期において、近代医療と教育が始められた。アフリカ人とヨーロッパ人の医者、看護師らが医療サービスを提供し、天然痘、マラリア、結核などの重い病気を低減した。子供達は以前よりも死亡することが少なくなり、ダオメーの人口は増加した。また、初等教育も始まったが、公務員、および植民地政府の役人を育てるため、キリスト教の伝道師らが始めたものだった。

ポルトノボ事件

1921年から翌年にかけて、植民地政府は人頭税の増税を行ったほか、都市部の近代建築に対する新たな税も導入された。これに不満を感じたポルトノボの市民らは、1923年2月、異議を唱え、大規模な抗議活動を行なった。労働者のストライキが起こり、さらにコトヌー港の作業員らもストライキを始め、市場を閉鎖し、ヨーロッパ人の食料が不足する事態となった。しかし、このような抗議活動の中、代表者でもあるルイ・アンカンラン(Louis Hunkanrin)、オニ・ベロ(Oni Bello)、エマニュエル・テット(Emmanuel Téte)らは、植民地政府に対して不服従の対応をとるよう促した。こういった植民地政府に対する反乱がポルトノボの郊外、およびコトヌーでも広がったことから、ダカールの総督から軍の派遣の命令が下り、周辺のフランスの植民地から軍人や哨戒艇が派遣された。軍の派遣により、抗議活動が止まった。税制は元に戻され、ポルトノボ市民には罰金刑が課された。代表者のルイ・アンカンランは、モーリタニアに10年間国外追放されることになった。

独立への動き

1946年以降、植民地総督の影響力が小さくなり始め、ダオメーは国家としての方向へ性質を次第に帯びてくるようになった。これは、ド・ゴール将軍が 1944年に開いたブラザビル会議において、民主的な自由をフランスの植民地に授与することを勧告したことによるものである。1945年、ダオメーは、フランスの立憲議会の代表者として、2名の議員を選出した。ポルトノボ出身のスル・ミガン・アピティ(M. Sourou Migan Apithy)と、ペール・オーピエ(Père Aupiais)氏である。しかし、オーピエ氏は2ヵ月後に死亡した。後任にまずベルト(Père Bertho)氏が、そして後にナティティング出身のウベル・マガ(Hubert Maga)氏が着任した。アピティは、ダオメー共和党(le Parti Républican du Dahomey; P.R.D.)を結成した。マガもまた、ダオメー民主団(le Regroupement Démocratique Dahoméen; R.D.D.)を結成した。そして、アボメー出身のジュスタン・アオマデベ(Justin Ahomadégbé)は、ダオメー民主連合(l'Union Démocratique Dahoméenne; U.D.D.)を結成した。3人とも、ダオメーを動かし、国民生活を改善するため、権力を得ようとしていた。

大臣選出の際、アピティが副大統領に指名された。アピティおよびアボメー国民は、アフリカ諸国の集まりであるフランス共同体の一部になることを受け入れた。そして、経済と社会の発展のため、フランスの経済支援を受け入れることにした。

1958年12月4日、ダオメーは共和国になり、マガが国家元首(首相)となった。ベナンは、フランスに独立を求めるための協定会議において、コートジボワール、オートボルタ(現ブルキナファソ)、ニジェールと意見が一致した。そして、1960年8月1日に、ベナンの独立が宣言された。人々はポルトノボの政府官邸に駆けつけ、喜びと歓喜にあふれ、祝福した。国は6つの県で構成され。さらに、国民を代表する多くの議員が選出された。

マガは初代大統領になり、アピティは副大統領になった。この2人はダオメー国民を統合し、統一ダオメー党(le Parti Dahoméen de l'Unité; P.D.U.)を結成した。

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