ベルギーの航空会社「ブリュッセル航空」は、7月6日から、ベルギーの首都ブリュッセルと、ベナン最大都市コトヌーとの週2往復の定期便を就航させ る。現在、ヨーロッパから直接空路でベナンへ行く場合は、パリ発のエールフランス便しかないため、今回の新規就航で、ベナンへの空路の利便性が少し高まる ものと思われる。運航ダイヤは、ブリュッセルを火曜日と土曜日の14:05に出発し、19:35(土曜は22:30)にコトヌーに到着する。コトヌー発の 場合、火曜日と土曜日の20:50にコトヌーを出発し、翌日7:15にブリュッセルに到着する。なお、土曜日に限り、コトヌー発23:45、ブリュッセル 着7:15の便もある。
航空料金はそれほど安いとは言えないが、片道利用、長期滞在での利用では、比較的安い運賃設定となっている。また、 ブリュッセル航空は「SN早割アフリカ」、「アフリカパス」の2種類の割引航空券もある。7月からの就航路線が使えるかどうかは現在不明だが、7月以降使 えるようになれば、こういった割引航空券を使うのも一考である。予約、発券は東京の日本地区総代理店で行えるほか、インターネットでもクレジットカード利 用で予約が可能である。
なお、ブリュッセル航空は、7月5日からガーナのアクラとブルキナファソのワガドゥーグーに、7月9日にもトーゴのロメに定期路線を就航させる。エールフランスの独占に近い状態だった欧州―西アフリカ諸国間の空路が、7月以降大きく変わり始める。
3月16日、コトヌーで「食糧援助」および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」の2件の無償資金協力に関する書簡の交換が行われた。日本側 は番場正弘駐ベナン大使が、ベナン側はジャン・マリ・エウズ外務・アフリカ統合・フランス語圏・在外ベナン人大臣が出席した。供与額は、2件合わせて12億2千万円である。
昨年起きた洪水で、住民2000世帯以上が避難するなど、人的な被害と、食糧不足も報告されている。今回の「食糧援助」 および「気候変動による自然災害対処能力向上計画」は、食糧不足に対応するコメの調達に必要な資金を供与するものと、安全な飲料水確保に必要な機材や設 備、および河川の護岸整備など自然災害へ対処する能力を向上させることを目的としたものである。
参考データ
※「ベナンに対する渡航情報(危険情報)の発出」に「在コ−トジボワ−ル日本国大使館(ベナンを兼轄)」とありますが、これは2009年10月9日現在のものです。2010年1月に、在ベナン日本大使館が開設されました。詳細は過去記事「在ベナン日本大使館開設 」を参照。
社会主義の導入と国名の変更へ
1972年10月26日、軍隊が権力を掌握し、議会を廃止した。少佐のマティウー・ケレク(Matheieu Kerekou )は、革命軍政府(GM.R.; Gouvernement Militaire Révolutionnaire)という新政府の代表をつとめた。11月30日、ケレクはダオメー国民に「国家建設の施政方針演説」を発表した。
新政権は変革および政治、社会、文化、そして人々の経済、特に労働者、職人、兵士の軍団や農民達の生活において、より多くの公平さをもたらしたかったからである。ケレクは、帝国主義や殖民主義、いわゆる外国による支配を取り消した。
1973年、革命国民会議は、地方の革命委員会と、革命防衛委員会を設置した。思想的かつ愛国的な集会は、義務になった。1974年、改革が村の昔のリーダーらにも広がり、村落や都市の地方自治体を運営する市長や代表らを選出させた。1974年11月30日、アボメーで、国を発展させるため、政権の運営と社会主義の本質が吹き込まれているマルクス=レーニン主義を採用した。1975年11月30日、ダオメーの名前は変わり、ベナン人民共和国となった。緑、黄、赤の旗に変わって、左上に赤い星が置かれた緑地の国旗に取り替えられた。それ以後の祭日は11月30日になった。革命軍政府は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの社会主義国に歩み寄り、セク・トゥーレのギニアをモデルにした。革命軍政府の党が発行する新聞、ラジオでは、「打倒帝国主義」といったスローガンを用い、また絶えず革命の歌を繰り返し流すことで、軍人らを奮い立たせた。
大企業や銀行、保険会社は国営化された。1975年10月には、教育改革が行なわれ、革命主義的な若い先生の育成や、マルクス=レーニン主義の教育も含まれていた。
1975年6月21日、当時の内務大臣、ミッシェル・アイペ(Michel Aikpe )が排除されたため、ダオメー労働組合、学生、教員らがストライキを起こした。政府は力でストライキを食い止めた。労働者らは、「反政府的」であると表明を出し、政府に反対する人達は刑務所に投獄された。ある者は逃げ出し、国外に亡命した。
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