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シリーズ・ベナンの歴史(3)ベナン北部の諸王国・前編
ベナン北部の歴史は、ベナン南部とは少し異なる。これは、ベナンの南部はアボメー王国の領土であったが、北部はアボメー王国とは違った王国が支配していた地域であったことが背景としてある。また、イスラム教の影響が南部より強く、ナイジェリアやニジェールなどの交流も盛んであったことも考えられる。
ニッキ王国
西暦1500年ごろ、ナイジェリアからベナンの北部のニッキウヌにバリバ人の騎馬民族がやってきた。もともとニッキウヌには先住民族がいたため、先住民族と騎馬民族との間で戦いが起こり、後に和解した。騎馬民族の首長であるスノン・セロ(Sounon Séro)の子供たちは、新たな土地と獲物を求めて遠くへ進出していった。子供たちのうちの一人、セロ・シキア(Séro Sykia)は、ニッキウヌに王国の都を創設した。
ニッキ王国初代大王のシメ・ドブヂャ(Simé Doboudya)の子供らは、大王から権力を受け継いだのだが、人数が多く、お互いに戦いを繰り返した。中には、権力を拒み、よそにクアンデ王国やカンディ王国などの王国をつくりに行った者もいた。
西暦1830年ごろ、現在のナイジェリアのバリバ人とヨルバ人が、イスラム教徒のプール人によって攻撃されていた。ナイジェリア、オヨのヨルバ人の王様は、当時のニッキ王国の王様、セロ・ペラ(Séro Kpéra)に援軍を要請した。セロ・ペラは勇敢で攻撃的な王で、近隣の小さな諸王国を併合していた。セロ・ペラはバリバ人兵士の指揮を執っていたのだが、バリバ人とヨルバ人が対立し、1831年のイロリンの戦いで、プール人に敗北した。セロ・ペラは殺され、ニッキ王国は滅亡した。
クアンデ王国
ニッキ王国の王子であるチャビ・ガバ(Chabi Gaba)は、酒飲みで乱暴であったため、ニッキ王国から追放された。チャビ・ガバはナティティング南部へ逃れ、やがてこの地域の王となった。チャビ・ガバの息子のウォル・ワリ(Worou Wari)は、18世紀にクアンデに定住し、初代の王となった。ウォル・ワリはボルグ西部地域の諸国を支配するほど強く、水牛を意味する「バンガナ」という名前をつけた。ウォル・ワリの死後、弟のババ・タンタメ(Baba Tantamé)が王に即位し、ジュグーやナティティングにも勢力を広げた。さらに、ババ・タンタメの長男のセロ・ベル(Séro Gbérou)が即位すると、南部のモノ地方まで戦争し、王国を拡大していった。このように、クアンデのバリバ人はベナン北西部を支配する、強力な人々であった。しかし、フランス人がクアンデの街を占領したとき、当時即位していたウォル・ワリ2世は、フランスによって王位を剥奪されてしまい、ウォル・ワリ 2世は服毒自殺した。