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シリーズ・ベナンの歴史(6)アラダ王国と初期のアボメー王国

17~18世紀頃、ベナン南部にはアラダ王国、アボメー王国、ポルトノボ王国、サビ王国といった王国があり、これらの王国を築いた人たちは、トーゴ南東部の街、タド(Tado)からやってきた。

アラダ王国

アラダは王国の首都で、実に多くの人が住んでいたが、住民らは十分な食料を手にしていなかった。また、ある人達は魚が豊富なアヘメ湖周辺に住み始めた。

タドの王の娘であるアリボノンの伝説では、アリボノンが仲間と川に水をくみに行った際にヒョウが現れ、王女一人だけが逃げることができなかった。数ヵ月後、王女はヒョウとの間に息子のアガス(Agassou)をもうけた。アガスは大きく、強い男だった。今度は彼が、多くの力強い、勇気のある子供を複数人もうけた。子供たちは、王に昇進したがっていたが、何人かは排除されてしまった。そのうちの一人のアジャウト(Adjahouto)は、両親と逃げてアラダにたどり着き、王国を築いた。

アジャウトには4人の男の子がいたが、けんかで分かれた。メイヂ(Meidji)はアラダの王となった。彼の兄のゾゼリベ(Zozérigbé)はポルトノボ方面に進んだ。ド・アクリン(Do-Aklin)は、ガニィェ・エス(Ganyé Hessou)とダコ(Dako)の2人の子供を連れて、カナンとボイコンの地方に行った。ダコは後に、人々からダコ・ドヌ(Dako-Donou)と言われれた。

アジャウトによって創設されたアラダ王国は、17世紀~18世紀初頭は輝かしい時代であった。海岸の潟に位置する港を通じて、アラダの王は、ヨーロッパ人と貿易を行い、火薬、繊維、アルコールなどを手に入れた。アラダの王は、それらを奴隷と引き換えにアボメーの王たちに転売した。ヨーロッパ人たちは奴隷を買い、アメリカ大陸のプランテーションで、高値で売った。アメリカ大陸では、奴隷達は死ぬまで重労働を強いられた。

17世紀、アラダの王は、商業関係の制定やカトリック宣教師司祭の派遣を頼むため、スペインのマドリードに大使2名を送った。その後、ポルトガル人やフランス人もアラダを訪れた。フランスからは、ルイ14世によって使者が派遣され、アラダの王に豪華な馬車を送った。アラダの王もまた、盛大なプレゼントをしたルイ14世に大使を送った。

1724年、アラダの繁栄をねたんでいたアボメー王国のアガジャ王は、アラダを攻撃した。サヴィ王国のウッフォン(Houffon)は隣のアラダ王を助けることを拒んだ。アラダ王は捕まえられ、殺された。アボメー軍の兵は、アラダ軍8000人を捕虜にした。これ以後、アラダ王国はアボメー王国の一部となった。

サヴィのウェダ王国

およそ450年前、アオオ(Ahoho)によって導かれたアジャの国から来たアジャ人たちは、アヘメ湖の近くに来た。アオオ(Ahoho)はサエ(Sahé)の街を設立した。サエは大きくなり、後にサヴィとなった。首長のアオオは、海の近くの場所にグレウェ(Gléhoué)という家を置いた。グレウェとは、ヨーロッパ人が、ウェダと呼んでいた村のことである。ウェダという言葉のなまった発音が変化して、ウィダになった。

2代目のパセ(Kpassè)王の時代、ポルトガル人が王国にやってきた。このとき、王国の人は初めて白人の姿を見た。ポルトガル人達は王に導かれ、王は彼らに食料とヤギを与え、ポルトガル人は王に織物や鏡を献上した。

その後、フランス人、イギリス人、そしてポルトガル人が、ウィダに頑丈な要塞を建設した。ヨーロッパ人たちは、アメリカ大陸に売るための奴隷を買った。奴隷と引き換えに彼らが払ったのは、お金ではなく、サヴィの王がアボメー王に転売する商品や武器(銃など)だった。商業によって、ウェダ王国は豊かになった。

サヴィの最後の王は、若くして王位についたウフォン(Houffon)である。大臣らからあまり指導されず、善良な統治を行わなかった。ウフォンがアボメー王のアガジャと会ったとき、ウフォンは王国の栄華を自慢した。アガジャは策を講じ、1727年にサヴィ王国を征服、占領した。ウフォンは殺された。ウェダ側は反乱したが全て失敗に終わった。捕虜は虐殺されたか、奴隷として売られた。

ポルトノボ王国

アラダ王の息子の一人、ゾゼリベは、アラダ王国から東方に移動した。ゾゼリベの息子、テ・アバンリン(Té-Agbanlin)は、1684年、ナゴ人が生活している地域にたどり着いた。彼はこの地で、元の統治者を追い出し、ポルトガル人がポルトノボ(新しい港)とよんでいるオボヌ王国を創った。彼は、アラダ王国のイメージで国を創った。ポルトノボ王国の初代の王になった。彼は王国を大きくし、アラダ王国のイメージで国を組織した。

ポルトノボ王国は、フランスが侵略するまでおよそ200年間続いた。その間、19人の王が即位した。テ・アバンリンの後は息子たちが後継者となり、次に孫やひ孫らが後継者となった。

初期のアボメー王国

アラダ王の孫のダコ・ドヌは、兄のガニィェ・エスを引き下がらせた。また、ダコ・ドヌは近隣の村と戦い、かつての首長たちを抑え、支配した。ダコ・ドヌは死ぬ前、後継ぎとなる子供がいなかったため、まだウェバジャと呼ばれていたいとこの息子であるアオ(Aho)を後任者とし、アボメー王国を創った。ガニィェ・エスの息子のウェバジャ(Houégbadja)は、ゲデヴィ人の住む地域に「アボメー」といわれる家を建て、家の周りを分厚い壁と溝で囲んだ。

ウェバジャは非常に賢かったので、国をよく統治できるよう、首長らに重要な助言をし始めた。やがてウェバジャは、昔からいた首長らや住民らに認められ、文化を発達させ、法を制定し、大臣らを任命し、王国を拡大するまで権力を掌握した。一部の首長らの中には不満を持つ者もいたが、反対することはできなかった。

ウェバジャは毎年、先祖らの名誉を称える盛大な祭りをひらいた。祭りの最中、兵士らが演習を行ったり、王が裁判を開いたり、国民に贈り物を贈ったりして、豊かさと権力を誇示した。

アボメーと言われるウェバジャの家は、多くの壁で囲まれた真の王宮となり、アボメーは王国の都になった。

年表

※この表は、ベナンの歴史(6)に出てくる国名の変遷をわかりやすくしたものであり、実際には他にも王国があります。

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