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アフリカニュース

September 2009 の記事一覧

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経済危機の中の投資:ナイジェリア、ケニアに教育支援

9月17日、国連貿易開発会議の2009年の報告書が発表された。世界同時不況により、2008年の投資額は、2007年より17%、約1兆5千億米ドル(約135兆円)分低下した。2010年の直接投資は緩やかな回復傾向が見られる。

こういう状況ではあるが、日本は投資額を増加させたまれな国のひとつである。

9月中旬には、JICA(国際協力機構)はナイジェリアの基礎・高等教育委員会と協定を結び、ナイジェリアの6つの州で490教室を建設することが計画されている。

また9月23日に、日本はケニアに対し数十億円のローンを行なうことを決めた。これは貧困削減のためのナイロビへの行政が含まれており、初等教育の就学率を上昇させる方針の1つになっている。

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ワールドカップ南アフリカ大会予選:ベナン出場逃す

9月6日にワールドカップ南アフリカ大会予選が行なわれた。グループ4のベナンはマリと対戦し、1-1の引き分けに終わった。同日、グループ4内1位のガーナがスーダンと対戦し、2-0でスーダンを下した。これにより、ガーナはグループ内1位が確定し、ワールドカップの出場が決まった。ベナンは今回もワールドカップの出場の機会を逃した。

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米国国務長官 アフリカ7カ国歴訪

クリントン米国国務長官は、8月4日から11日間の日程で、アフリカのケニア、南アフリカ共和国、アンゴラ、コンゴ民主協和国、ナイジェリア、リベリア、カーボベルデの7カ国を訪問した。

5日にはケニアを訪問し、キバキ大統領とオディンガ首相の両氏と会談した。2007年末の大統領選挙でケニア国内が混乱していたが、今年4月に、大統領選を巡って対立していたキバキ大統領とオディンガ氏が連立政権を組み、国内の情勢は以前よりかなり回復している。ヒラリー国務長官は両氏に対し、より協調していくことを促した。また、いわゆるイスラム過激派が勢力を増すソマリアの隣国ケニアは、アメリカにとって重要な同盟国であり、今も不安要素が残る国内の政情を安定化するようを求めた。

6日はケニアの首都ナイロビで、隣国ソマリアの暫定政府のアハメド大統領と会談した。会談後の記者会見において、アメリカがイスラム系テロ組織・アルカイダとの関係が指摘されているソマリアの武装勢力の掃討に向けて、暫定政府の支援を拡大する旨を明らかにした。

9日は、一昨年に石油輸出国機構(OPEC)の加盟国に承認された、南部アフリカのアンゴラを訪問した。原油輸入の先を中東諸国に依存しないようにするためと、中国の急速なアフリカ進出に対抗するため、資源獲得を視野に入れた二国間関係の強化を図るものと見られている。これはアンゴラに限らず、石油産出国のナイジェリアや、希少金属などで有名なコンゴ民主共和国に対しても同様である。クリントン国務長官は、600万米ドルのアンゴラの農業支援に関する投資に、アメリカの王手石油会社シェブロンと署名した。また、再生可能エネルギーに関する協力関係の強化の約束や、温室効果ガス削減に関わる技術協力について議論を行なった。

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シリーズ・ベナンの歴史(6)アラダ王国と初期のアボメー王国

17~18世紀頃、ベナン南部にはアラダ王国、アボメー王国、ポルトノボ王国、サビ王国といった王国があり、これらの王国を築いた人たちは、トーゴ南東部の街、タド(Tado)からやってきた。

アラダ王国

アラダは王国の首都で、実に多くの人が住んでいたが、住民らは十分な食料を手にしていなかった。また、ある人達は魚が豊富なアヘメ湖周辺に住み始めた。

タドの王の娘であるアリボノンの伝説では、アリボノンが仲間と川に水をくみに行った際にヒョウが現れ、王女一人だけが逃げることができなかった。数ヵ月後、王女はヒョウとの間に息子のアガス(Agassou)をもうけた。アガスは大きく、強い男だった。今度は彼が、多くの力強い、勇気のある子供を複数人もうけた。子供たちは、王に昇進したがっていたが、何人かは排除されてしまった。そのうちの一人のアジャウト(Adjahouto)は、両親と逃げてアラダにたどり着き、王国を築いた。

アジャウトには4人の男の子がいたが、けんかで分かれた。メイヂ(Meidji)はアラダの王となった。彼の兄のゾゼリベ(Zozérigbé)はポルトノボ方面に進んだ。ド・アクリン(Do-Aklin)は、ガニィェ・エス(Ganyé Hessou)とダコ(Dako)の2人の子供を連れて、カナンとボイコンの地方に行った。ダコは後に、人々からダコ・ドヌ(Dako-Donou)と言われれた。

アジャウトによって創設されたアラダ王国は、17世紀~18世紀初頭は輝かしい時代であった。海岸の潟に位置する港を通じて、アラダの王は、ヨーロッパ人と貿易を行い、火薬、繊維、アルコールなどを手に入れた。アラダの王は、それらを奴隷と引き換えにアボメーの王たちに転売した。ヨーロッパ人たちは奴隷を買い、アメリカ大陸のプランテーションで、高値で売った。アメリカ大陸では、奴隷達は死ぬまで重労働を強いられた。

17世紀、アラダの王は、商業関係の制定やカトリック宣教師司祭の派遣を頼むため、スペインのマドリードに大使2名を送った。その後、ポルトガル人やフランス人もアラダを訪れた。フランスからは、ルイ14世によって使者が派遣され、アラダの王に豪華な馬車を送った。アラダの王もまた、盛大なプレゼントをしたルイ14世に大使を送った。

1724年、アラダの繁栄をねたんでいたアボメー王国のアガジャ王は、アラダを攻撃した。サヴィ王国のウッフォン(Houffon)は隣のアラダ王を助けることを拒んだ。アラダ王は捕まえられ、殺された。アボメー軍の兵は、アラダ軍8000人を捕虜にした。これ以後、アラダ王国はアボメー王国の一部となった。

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