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ソマリア内戦再び劇化
アフリカの角とも呼ばれている東アフリカのソマリアで、再び戦闘が激化している。暫定政府とイスラム法廷会議との間で長年対立していたが、勢力を拡大させているイスラム法廷会議に対して、エチオピア軍が空爆等の攻撃を行うなど、地域紛争、国際紛争につながる可能性が出てきた。
1991年のバーレ政権崩壊後、15年以上中央政府が無いこの国で、2004年に暫定政府が発足した。しかし、暫定政府とイスラム法廷会議十間で対立関係が続いており、イスラム法廷会議が06年6月に首都のモガディシュ※を制圧。イスラム法廷会議は、その後もソマリア中南部で勢力を広げ続けた。
このままでは、イスラム法廷会議がソマリア全土を支配することを近隣諸国は恐れ、06年12月24日、隣国エチオピアが、ソマリアに対して空爆を行った。また、エチオピア軍とソマリア暫定政府との連合軍が、イスラム法廷会議の拠点を次々に制圧し、1月1日に中南部を支配下に置いた。だが、イスラム法廷会議側は抗戦を誓っており、ゲリラ戦が行われる可能性がある。
暫定政府の入った首都モガディシュでは、治安の悪化、エチオピア軍の駐留などで、住民は不満を唱えている。
(※ソマリアの首都の名前は、他にモガディシオ、モガジシオと表記している文献、資料などもある。)
エチオピア軍が侵攻した理由は?
単にソマリアがテロの温床となることを恐れているのではない。もともと、ソマリアとエチオピア東部の国境付近であるオガデン地方では、ソマリアと同じソマリ族が多く住み、両国はこのオガデン地方を巡って対立しており、1977年にはオガデン紛争も起こっている。
90年代にも、エチオピアが支援した現ソマリア暫定大統領ユスフ氏の武力が、イスラム法廷会議の指導者アウェイス師率いるソマリ族武装勢力を打倒したという背景がある。
ソマリアとはどういう国か
人口:820万人(2005年:世銀)
面積:638,000km²(日本の約1.8倍)
首都:モガディシュ(モガディシオ等と表記することもある)
宗教:イスラム教、
民族:ソマリ族(95%、民族的には一つだが、多数の氏族に分かれる)
言語:ソマリ語(公用語)、アラビア語、英語、イタリア語
宗主国:イギリス(北部)、イタリア(南部)
ソマリア内戦の経緯
※19世紀、現在のソマリアは、北部は英国領、南部はイタリア領として植民地化された。
年 | 出来事 |
---|---|
1960 | 独立する。 |
1969 | シアド・バーレが、クーデターで政権を樹立。 |
1974 | ソマリアと旧ソ連が友好協力条約を結ぶ。隣国エチオピアでエチオピア革命が起こり、親ソ社会主義政権が誕生する。 |
1977 | ソマリア・エチオピア国境付近のオガデン地方で紛争が起こり、ソ連がエチオピアを支持する。ソマリアは友好協力条約を破棄し、アメリカに接近する。 |
1980 | アメリカ海軍、空軍のベルベラ港使用を認める。後に軍事協定を結ぶ。また、この頃からバーレ政権の権力基盤が弱まる。 |
1988 | 統一ソマリ会議(USC)が勢力を強める。バーレ政権は複数政党制導入を試みる。 |
1990 | 10月から統一ソマリ会議が政権に攻撃し、政府軍を破って首都のモガディシュを制圧する。 |
1991 | シアド・バーレ大統領が追放される。 |
1992 | 国連安保理決議が採択され、停戦要請と武器禁輸措置を目的とした国連の平和維持活動が行われる。 |
1993 | 米国特殊部隊が襲撃され、その後米軍が撤退する。 |
1995 | 国連の平和維持活動終了し、多国籍軍が撤退するも、依然内戦は続いた |
2004 | 暫定政府発足(ユスフ暫定大統領就任) |