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アフリカニュース

Category "History" の記事一覧

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シリーズ・ベナンの歴史(13)民主主義の時代:1990~1991年

国民会議

1990年2月19日から28日、コトヌーで国民会議が開かれた。この国民会議は、基本的な自由と人権を保障する憲法をつくるものであった。国内、海外から524人のベナン人が集まった。コトヌーの司教であるイシドール・スザ(Isidore de Souza)閣下は、満場一致で国民会議の議長に選ばれた。2月25日、ケレク大統領が同意し、民主的な新しい政治体制が、平和的な方法で生み出された。2月27日、ニセフォール・ソグロ(Nicéphore Soglo)氏が、国民会議で首相に選ばれた。3月1日、ベナン人民共和国はベナン共和国になり、1977年の憲法は廃止された。ソグロ首相が任命され、12ヶ月間の移行期間を制定した。ケレク大統領は大統領からは退いたが、軍の最高司令官として残った。

移行期間は、国民会議によって決められた任務をやり遂げることが求められた。その任務とは、仕事や経済活動の再開、国の権限の回復、公共の場における生活マナーの向上、選挙の準備といった最も重要な諸問題を解決することであった。

新憲法はベナン人による国民投票にゆだねられ、1990年12月2日、大多数の賛成で採択された。

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シリーズ・ベナンの歴史(12)ケレク政権の時代:1972~1990年

社会主義の導入と国名の変更へ

1972年10月26日、軍隊が権力を掌握し、議会を廃止した。少佐のマティウー・ケレク(Matheieu Kerekou)は、革命軍政府(GM.R.; Gouvernement Militaire Révolutionnaire)という新政府の代表をつとめた。11月30日、ケレクはダオメー国民に「国家建設の施政方針演説」を発表した。

新政権は変革および政治、社会、文化、そして人々の経済、特に労働者、職人、兵士の軍団や農民達の生活において、より多くの公平さをもたらしたかったからである。ケレクは、帝国主義や殖民主義、いわゆる外国による支配を取り消した。

1973年、革命国民会議は、地方の革命委員会と、革命防衛委員会を設置した。思想的かつ愛国的な集会は、義務になった。1974年、改革が村の昔のリーダーらにも広がり、村落や都市の地方自治体を運営する市長や代表らを選出させた。1974年11月30日、アボメーで、国を発展させるため、政権の運営と社会主義の本質が吹き込まれているマルクス=レーニン主義を採用した。1975年11月30日、ダオメーの名前は変わり、ベナン人民共和国となった。緑、黄、赤の旗に変わって、左上に赤い星が置かれた緑地の国旗に取り替えられた。それ以後の祭日は11月30日になった。革命軍政府は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの社会主義国に歩み寄り、セク・トゥーレのギニアをモデルにした。革命軍政府の党が発行する新聞、ラジオでは、「打倒帝国主義」といったスローガンを用い、また絶えず革命の歌を繰り返し流すことで、軍人らを奮い立たせた。

大企業や銀行、保険会社は国営化された。1975年10月には、教育改革が行なわれ、革命主義的な若い先生の育成や、マルクス=レーニン主義の教育も含まれていた。

1975年6月21日、当時の内務大臣、ミッシェル・アイペ(Michel Aikpe)が排除されたため、ダオメー労働組合、学生、教員らがストライキを起こした。政府は力でストライキを食い止めた。労働者らは、「反政府的」であると表明を出し、政府に反対する人達は刑務所に投獄された。ある者は逃げ出し、国外に亡命した。

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シリーズ・ベナンの歴史(11)独立直後の時代―頻発したクーデター:1960~1972年

1960年12月11日に最初の選挙が行なわれた。しかし、独立直後のダオメーはまだ国としては弱い部分もあり、統一ダオメー党(le Parti Dahoméen de l'Unité)は全国民を結束させることはできなかった。独立によって生まれたさまざまな困難は、労働者たちの不満を生むことになった。また学生らがストライキや抗議活動を起こし、1963年10月、独立後初のクーデターが発生した。政権は翌年まで、クリストフ・ソグロ(Christophe Soglo)将軍に戻された。

新たな政治体制、は1964年1月に公表された。スル・ミガン・アピティ(Sourou Migan Apithy)が大統領になり、ジュスタン・アオマデベ・トメタン(Justin Ahomadégbé Tometin)が、副大統領、首相になった。彼らは一緒に、ダホメー民主党(Le Parti Democratique Dahomeen; P.D.D.)を創設した。しかし約2年後、2人はこれ以上理解しあうことはなかった。これ以後は、元首は一人にしなければならなかった。ソグロ将軍はクーデターを起こして反対する者を追い払い、1965年12月に権力を掌握した。

しかし、経済面での課題は無くなることはなかった。国外に追放された多くのダオメー人は戻ってきた。生活は困難を極め、政府は労働者の給与を減らした。その間、人々は現状を改善するため、経済発展計画をあてにした。フランスや他の国々は、様々な分野でダオメー人を援助するため、資金や公務員を送った。

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シリーズ・ベナンの歴史(10)植民地から独立へ

植民地時代の行政

ダオメー植民地は、旧アボメー王国と、フランスに占領された北部地方の領土と合わせて、1894年につくられた。1904年、ダオメー植民地は、他の7 つの植民地と共に、フランス領西アフリカ(Afrique Occidental Française; AOF)に併合された。AOFの総督府は、現在のセネガルのダカールに置かれた。また、ダオメー植民地政府はポルトノボに置かれた。

ダオメーは南部に11区、北部に4区の合計15の行政区に分けられた。これら15の行政区は、150もの郡に分けられ、さらに郡は村に分けられた。村の数は3600であった。行政区の首長は、フランスの総督府が指名した者が担当し、郡の首長は、複数の村から選出された人が職についた。

このような新たな制度が設けられたが、ベナン南部では、伝統的な首長制度が残るケースもあった。アボメー、およびポルトノボでは、郡の首長は、旧王族の中から選出された。一方で、ベナン北部は、長年フランスが進出せず、「真のダオメーはアボメーまで」、との認識もあった。この認識は、鉄道がパラクーまで延びても変わることはなかった。南北ダオメーは互いにほとんど知り合うことなく、政治的、経済的な結びつきも薄かった。また、北部では、ニッキやパラクーなどの一部の強大な権力を持った首長を除いて、首長自身の村の外に権力を及ばせることは無かった。次第に南北の人やモノの動きが大きくなり、経済的に接近はしてきたものの、北部の人は「遅れた」地域ということで、南部の人から軽蔑されるようになった。南部から北部に赴任する人たちの中には、未開の見知らぬ土地に「追放された」と思う人もいた。

植民地期において、近代医療と教育が始められた。アフリカ人とヨーロッパ人の医者、看護師らが医療サービスを提供し、天然痘、マラリア、結核などの重い病気を低減した。子供達は以前よりも死亡することが少なくなり、ダオメーの人口は増加した。また、初等教育も始まったが、公務員、および植民地政府の役人を育てるため、キリスト教の伝道師らが始めたものだった。

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シリーズ・ベナンの歴史(9)フランスに対するベナン人の抵抗

ベナン南部での抵抗

1889年、グレレ王の死後、王子のコンド(Kondo)は王になり、ベハンゼン(Behanzin)という名前を名乗った。ベハンゼンはどうもうなサメに例えられ、国民から偉大な王ともみなされた。またベハンゼンは、白人を受け入れたくなかったため、フランスの大使、ジャン・バヨル(Jean Bayol)が要求したことを拒否した。

バヨルが戦争する準備をしているとベハンゼンが聞いたとき、彼は大臣らと軍人らを集めて王室会議を開き、占い師のゲデベ(Guèdègbé)を通じ、死んだ王たちに意見を聞くことにした。死んだ王たちは、フランスとの戦争をやめよと答えた。しかし、一部の人たちは、白人は臆病で、強い日光や蚊への抵抗力が無い人たちであると、ベハンゼンが戦争をするようにそそのかした。こうして、ベハンゼンは戦争を始めた。

バヨルはアボメー王国との戦争の準備を始めたが、フランス政府はバヨルに対し、平和にしておくよう勧告した。バヨルは、ベンハンゼンの首長2人を捕まえ、フランスが占領していたコトヌーにアボメー軍を来させるようにした。アホメー軍は、コトヌー近郊のゾグボ(Zogbo)でフランス軍を攻撃した。しかし、フランス側は厳重に護衛していたため、両軍との間で激しい戦いが行われた。アボメー軍が多くの兵力を失い引き下がったが、その後アボメー軍は、ポルトノボのアチュパ(Atchoukpa)を再度攻撃した。フォン人の兵士らは、ポルトノボ王国の王・トファ1世を護衛していた、テリロン(Terrillon)将軍の軍勢に攻撃をくわえた。

その後、ベハンゼンはアボメーに戻り、フランスに対し、毎年2万フランの支払いでコトヌーでの商業を行う権利を与えることに合意した。しかし、フランス人がウィダにとどまることを拒否した。これについてフランス政府は満足せず、再び戦争を始める準備をした。また、フランス人はアボメー王国について調査を行い、兵を上陸させるための埠頭を建設した。

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シリーズ・ベナンの歴史(8)18世紀後半から19世紀のアボメー王国

アゴングロ王(1789-1797)とアダンドザン王(1797-1818)の時代

アゴングロ(Agonglo)はピングラ王の後継者であった。アゴングロ王は、国民を大いに喜ばせる改革を行なった。ウィダの商業を圧迫していた税金を免除したほか、囚人らの処遇を改善した。軍事面で、アゴングロ王は、多くの女性兵士を配置した。また、アボメーの南方のワチ人に対して戦争をした。

アダンドザン(Adandozan)王は、国民を虐待し、奴隷として母親を売るなど、残酷なことをした王であった。アダンドザンは王国の法律をやぶり、またマヒ人やヨルバ人との戦いにも敗れた。大臣らや軍人ら、フランシスコ・ドゥ・スザは王位を狙っていた弟のガッペ(Gakpé)を支援した。時の首相は、王のみが履くサンダルをアダンドザンから剥奪し、ガッペがそのサンダルを履いた。以後、アダンドザンは死ぬまで、禁固刑に処せられた。

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シリーズ・ベナンの歴史(7)17世紀後半から18世紀のアボメー王国

アカバ王(1685-1708)の時代

ウェバジャに敵意を持っていたダンという人物がいた。ダンを排除するために、ウェバジャは息子のウェッス(Houessou)をダンのもとに行かせ、ダンから半ば強制的に何度も土地を奪った。ダンは耐えかね、土地を奪いに来るウェッスを殺害しようとしたが、失敗した。ウェッスは怒ってダンを殺害し、建物を支えるための石をダンの墓の上においた。この建物は、「ダンのお腹の中という意味」の「ダノメ(Dan Homè)」となった。ダノメは、後にダオメーという言葉にかわった。

ウェバジャは死ぬ前に、後継者に息子のウェッスを指名した。1685年、ウェッスが王位に上り詰めたのだが、このときすでに50歳になっていた。ウェッスは自分自身を、ゆっくりと、かつ確実に獲物を狙うカメレオンに例え、アカバ(Akaba)と名乗った。また、刺繍が施された父のサンダルを受け継いだ。

アカバは、ウェメ川の東岸に住んでいたウェメ人と戦争をした。戦争の末期に、アカバは天然痘にかかってしまい、1708年に、10歳の息子、アボ・ササ王子を残して死亡した。アカバの死後、アボメー軍は勝利し、王国はそれ以後ウェメ地域まで広がった。

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シリーズ・ベナンの歴史(6)アラダ王国と初期のアボメー王国

17~18世紀頃、ベナン南部にはアラダ王国、アボメー王国、ポルトノボ王国、サビ王国といった王国があり、これらの王国を築いた人たちは、トーゴ南東部の街、タド(Tado)からやってきた。

アラダ王国

アラダは王国の首都で、実に多くの人が住んでいたが、住民らは十分な食料を手にしていなかった。また、ある人達は魚が豊富なアヘメ湖周辺に住み始めた。

タドの王の娘であるアリボノンの伝説では、アリボノンが仲間と川に水をくみに行った際にヒョウが現れ、王女一人だけが逃げることができなかった。数ヵ月後、王女はヒョウとの間に息子のアガス(Agassou)をもうけた。アガスは大きく、強い男だった。今度は彼が、多くの力強い、勇気のある子供を複数人もうけた。子供たちは、王に昇進したがっていたが、何人かは排除されてしまった。そのうちの一人のアジャウト(Adjahouto)は、両親と逃げてアラダにたどり着き、王国を築いた。

アジャウトには4人の男の子がいたが、けんかで分かれた。メイヂ(Meidji)はアラダの王となった。彼の兄のゾゼリベ(Zozérigbé)はポルトノボ方面に進んだ。ド・アクリン(Do-Aklin)は、ガニィェ・エス(Ganyé Hessou)とダコ(Dako)の2人の子供を連れて、カナンとボイコンの地方に行った。ダコは後に、人々からダコ・ドヌ(Dako-Donou)と言われれた。

アジャウトによって創設されたアラダ王国は、17世紀~18世紀初頭は輝かしい時代であった。海岸の潟に位置する港を通じて、アラダの王は、ヨーロッパ人と貿易を行い、火薬、繊維、アルコールなどを手に入れた。アラダの王は、それらを奴隷と引き換えにアボメーの王たちに転売した。ヨーロッパ人たちは奴隷を買い、アメリカ大陸のプランテーションで、高値で売った。アメリカ大陸では、奴隷達は死ぬまで重労働を強いられた。

17世紀、アラダの王は、商業関係の制定やカトリック宣教師司祭の派遣を頼むため、スペインのマドリードに大使2名を送った。その後、ポルトガル人やフランス人もアラダを訪れた。フランスからは、ルイ14世によって使者が派遣され、アラダの王に豪華な馬車を送った。アラダの王もまた、盛大なプレゼントをしたルイ14世に大使を送った。

1724年、アラダの繁栄をねたんでいたアボメー王国のアガジャ王は、アラダを攻撃した。サヴィ王国のウッフォン(Houffon)は隣のアラダ王を助けることを拒んだ。アラダ王は捕まえられ、殺された。アボメー軍の兵は、アラダ軍8000人を捕虜にした。これ以後、アラダ王国はアボメー王国の一部となった。

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シリーズ・ベナンの歴史(5)ヨルバ人の王国

サベ王国

サベ王国は、ナイジェリアから来たヨルバ人によって建設された。

サルベという人物に指揮されたヨルバ人らは、最初はニッキの近くに移動した。だが、バリバ人に攻撃され、さらに南方に移動した。彼はサベ王のオラジャドゥンを手助けし、敵を追い返した。サベの王は満足し、オラ・オベに王位を与えた。そしてオラ・オベは、サベの丘の上の人々と住むことになった。

オラ・オベが王位についていた頃は、王国を拡大していた。王国に暮らす人は、岩の丘の上に住んでいたため、十分に防衛されていた。また、バリバ人やアボメー人などの敵に対する防衛もできるほか、丘の上から石を転がすこともできた。ただし、農作業で平地に出ていた農民が、アボメーの兵士に捕らえられることはあった。

エコチョニ王の時代、アボメー王国のゲゾ王によって攻撃されていたマヒ人を助けるため、サベに兵士を送ったが、ゲゾ王に処刑された。その後、ゲゾ王がサベ王国を奇襲し、エコチョニ王の首をはねた。サベ王国の国民は、処刑されたか捕まえられた。

フランスによるアボメー王国の占領後、サベの王はフランスに従属することになった。

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シリーズ・ベナンの歴史(4)ベナン北部の諸王国・後編

カンディ小王国

カンディ小王国は、ナイジェリアのプール人やデンディ人らによって、たびたび攻撃されていた。しかし、ニッキ王国国王の防衛により、攻撃から逃れられた。

ニッキ王国国王とカンディの首長から差し出された女性との間に生まれた息子は、ササ・バク(Sasa Baku)であった。ササ・バクは遠征先での戦いで勝利し、その後ニッキに現れることなく、母の故郷のカンディに戻り、その地で初代の王に即位した。カンディ王国と異なり、カンディ小王国は戦いを多くは行なわず、ニッキ王国に従属した。

パラク王国

パラクということばは、デンディ語で「全ての地域」を意味する。初期のパラクの街は、バリバ人に起源を発する人々が暮らしていた。そこに、ナイジェリアのヨルバ人やハウサ人、ニジェールのデンディ人やプール人らが流入してきた。その多くは、イスラム教徒であった。パラクの人々は、遠くの国々からやってきた人達と商売をしていた。

パラク王国初代の王は、コブル・アパキ(Kobourou Akpaki)といい、ニッキ出身の王子と、サベ出身のヨルバ人女性との間に生まれた。コプル・アパキはニッキ王国の王宮で育ったのだが、母親がバリバ人でないということで兄弟からいじめられ、サベに戻った。パラクにたどり着いた際に、パラクの人々はコブル・アパキを王に任命し、ニッキの王もこれを認め、ニッキ王国に服従することはなかった。こうして、コブル・アパキはパラク王国の王に即位した。

パラク王国は、商業によって豊かになった。だが、1894年にフランスが進出して来た際、フランスの軍事力を恐れ、他のバリバ人の国と違い、フランスと友好関係を結んだ。

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