7月8日~10日まで、イタリアのラクイラにおいて、サミット(主要国首脳会議)が行なわれた。今年もアフリカに関する議題が上がり、様々な提言が盛り込まれ、農村開発支援に3年間で200億米ドルを援助する食糧安全保障の支援目標が明示された。
初日の午後には、地球規模の課題として「開発・アフリカ」に関して協議された。この日の会合では、金融危機がアフリカ諸国にも影響を与えていることに触れ、各国首脳らは、引き続きアフリカの成長を指導する重要性を認識した。また、水と衛生、保健、教育などの分野に関しても、各国の取り組み強化の必要性を相互で認識した。
麻生首相は、アフリカの成長を確保することに関しては、人材育成が国力の基礎であることを強調した。また、食糧問題に関しても、農業の国際的投資は、透明性の確保と収奪の排除の必要性とあわせ、国際的な農業投資を促進するための指針作りを考える必要があることも述べた。
3日目は、G8とアフリカ諸国(アンゴラ、アルジェリア、エジプト、エチオピア、ナイジェリア、セネガル、南アフリカ、リビア)との拡大会合と、食料安全保障に関する拡大会合が行われた。アフリカ諸国の首脳らは、G8とアフリカとの対話を強化することを歓迎した。G8とアフリカ諸国は、両者の協力関係を強化し続けることの重要性について合意し、特に金融危機、アフリカに対する気候変動、平和と安全の促進といった諸問題について合意、討議した。また、アフリカにおける水と衛生に対するアクセス改善の国家計画を支援する強固な関係を構築する共同声明を出した。さらに、世界規模の食料安全保障の共同声明発表と、包括的アフリカ農業開発計画(CAADP)支援の重要性を認識した。
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カンディ小王国
カンディ小王国は、ナイジェリアのプール人やデンディ人らによって、たびたび攻撃されていた。しかし、ニッキ王国国王の防衛により、攻撃から逃れられた。
ニッキ王国国王とカンディの首長から差し出された女性との間に生まれた息子は、ササ・バク(Sasa Baku)であった。ササ・バクは遠征先での戦いで勝利し、その後ニッキに現れることなく、母の故郷のカンディに戻り、その地で初代の王に即位した。カンディ王国と異なり、カンディ小王国は戦いを多くは行なわず、ニッキ王国に従属した。
パラク王国
パラクということばは、デンディ語で「全ての地域」を意味する。初期のパラクの街は、バリバ人に起源を発する人々が暮らしていた。そこに、ナイジェリアのヨルバ人やハウサ人、ニジェールのデンディ人やプール人らが流入してきた。その多くは、イスラム教徒であった。パラクの人々は、遠くの国々からやってきた人達と商売をしていた。
パラク王国初代の王は、コブル・アパキ(Kobourou Akpaki)といい、ニッキ出身の王子と、サベ出身のヨルバ人女性との間に生まれた。コプル・アパキはニッキ王国の王宮で育ったのだが、母親がバリバ人でないということで兄弟からいじめられ、サベに戻った。パラクにたどり着いた際に、パラクの人々はコブル・アパキを王に任命し、ニッキの王もこれを認め、ニッキ王国に服従することはなかった。こうして、コブル・アパキはパラク王国の王に即位した。
パラク王国は、商業によって豊かになった。だが、1894年にフランスが進出して来た際、フランスの軍事力を恐れ、他のバリバ人の国と違い、フランスと友好関係を結んだ。
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ベナン北部の歴史は、ベナン南部とは少し異なる。これは、ベナンの南部はアボメー王国の領土であったが、北部はアボメー王国とは違った王国が支配していた地域であったことが背景としてある。また、イスラム教の影響が南部より強く、ナイジェリアやニジェールなどの交流も盛んであったことも考えられる。
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ワールドカップ南アフリカ大会アフリカ地区最終予選で、6月はベナンの属するグループDでは各国2試合が行なわれた。
6月7日には、コトヌーでベナン対スーダン戦が行なわれた。前半22分、ベナンのオモトヨッシ(Razak Omotoyossi)が先制ゴールを決め、この1点をベナンが試合終了まで守りきり、1-0でベナンが勝利した。
6月21日には、バマコでマリ対ベナン戦が行なわれた。前半15分、ベナンのチョモゴ(Tchomogo Seidath)が先制ゴールを決めるが、後半29分、マリのメガ(Maiga Modibo)が同点ゴールを決め、前半が終了。後半は終盤まで得点が入らなかったが、後半31分、マリのジャロ(Diallo Mamadou)が勝ち越しのゴールを決め、さらに後半39分、カヌテ(Kanoute Frederic)がダメ押しの3点目のゴールを決めた。その後ベナンの反撃は無く、3-1でマリが勝利した。
ベナンはここまで3試合を終え、1勝2敗で勝ち点は3。グループ内順位は3位で、勝ち点9の首位ガーナとの勝ち点の差は6点ある。この時点でベナンの自力でのワールドカップ出場は無くなり、残り3試合全てベナンが勝っても、ガーナの成績次第でワールドカップに出場できるかどうかが決まることになる。
残り3試合は、9月、10月、11月に1試合ずつ行なわれる。
<ワールドカップ南アフリカ大会 アフリカ地区最終予選 グループD>(6月21日時点)
国名 |
試合数 |
勝 |
分 |
負 |
勝ち点 |
ガーナ |
3 |
3 |
0 |
0 |
9 |
マリ |
3 |
1 |
1 |
1 |
4 |
ベナン |
3 |
1 |
0 |
2 |
3 |
スーダン |
3 |
0 |
1 |
2 |
1 |
※グループ内1位のチームがワールドカップに出場。
アフリカ諸国がヨーロッパに植民地支配されるはるか以前、人々は野生動物を狩猟したり、森の果物を採ったりする、狩猟採集の生活を行なっていた。やがて、工具を磨いて地面を耕したり、犬、猫、鴨、豚、牛、馬などの家畜を飼いならしたりしていたと考えられている。さらに時代が経過すると、鉄の矢、銅の腕輪の製造や、洞窟の内壁面に動物を描くといったことも習得した。こういったことは、洞窟の壁画や地面に埋もれた化石等の発見で、当時の人々の生活が解明されていったのである。
農耕、あるいは牧畜を行なう際、人はまず家族を集団となす。いくつかの大きな家族が集まって、首長によって統率される「民族」を形成する。力のある民族の首長は、少しずつ近隣の民族を征服していく。このようにして、後に「王国」が形成されていくのである。西暦1500年以降に比較的力のある王国が、現在のベナン国内に出現する。ニッキ、クアンデ、カンディ、アボメーやポルトノボなどで王権がしかれると、「グリオ」と呼ばれる人たちがすべての王の名前や、王の戦いと勝敗の行方、即位したときや死亡したときの様子、一族の系譜などを歌にした。彼らグリオたちは、こういった物語を歌にして子供たちに教え、次の世代へ、次の世代へと口承で伝えられた。
今回から始まる「シリーズ・ベナンの歴史」では、ベナン共和国の歴史の概要を、連載記事として紹介していく。中学や高校で世界史を勉強したとき、ベナンを含むアフリカ諸国の歴史がどれだけ出てきただろうか。おそらく数ページ程度で、ほとんど覚えていないだろう。仮にアフリカが世界史で取り上げられたとしても、大航海時代以降の三角貿易、19世紀の植民地化、1960年のアフリカの年くらいであろう。西洋史や中国史と比べて、アフリカ史が登場する機会がまれなのである。これはなぜなのか。
その大きな理由は、アフリカ史を記した文字資料がほとんど無いからである。現在残っているアフリカ史に関する文字資料は、ヨーロッパ人が書き残したものがほとんどで、15世紀以降に限られている。また、アフリカでは、口頭伝承や音楽などで歴史が語り継がれていることが多い。そのため、特に15世紀以前の文字資料は、口頭伝承や音楽以外ほとんど無い状況なのである。
歴史学では文字資料が必須であり、それも裏付けがとれる文字資料ほど、資料としての重要度、あるいは信用度が高いものとなる。15世紀以前の文字資料がほとんどなく、かつ口頭伝承や音楽で歴史を記録してきたアフリカ諸国の歴史資料は、歴史学では重要度、信用度が低いと評価される。このため、世界史にアフリカが登場する機会が少ないのである。また、15世紀以降の記録についても、ほとんどはヨーロッパ人の視点で描かれた歴史である。このため、アフリカ人から見た歴史とは言い難く、本当のアフリカ史と言えるかどうか、疑問が残る。
近年は考古学、民俗学など、歴史学以外の観点からアフリカ史を再考する動きがある。少しずつではあるが、このような動きが今後加速し、より詳細なアフリカ史が描かれることを期待したいところである。
なお、今回から始まる連載は、実際にベナンで販売されている小学生向けの歴史の教科書を中心に、その他の参考文献を用いてベナンの歴史を紹介する。日本や中国や西洋の歴史と比べ、まだまだ詳細が解明されていない点が多いのも否めない。しかし、ベナンの国の成り立ちを知る上で、歴史を知ることは必須である。それだけでなく、多様で複雑であった民族構成や諸王国などが、奴隷貿易時代、植民地時代を経てどのように変ってきたかを、ベナン人の視点からもうかがうことができる。ベナンの歴史に触れることで、すこしでもベナンやアフリカの歴史に興味を持っていただきたい。
4月22日に行われた南アフリカの総選挙で、与党・アフリカ民族会議(ANC)のジェイコブ・ズマ大統領(67)が選出された。94年以降行われている全人種参加選挙において、ズマ氏は4代目の大統領となる。任期は5年。
ズマ氏は、南アフリカ共和国最大の民族であるズールー人の貧困家庭出身で、黒人貧困層に支持されている。だが、世界不況の影響で南アフリカ経済の成長も鈍化しており、貧困層への対策として福祉策に力を入れるのは難しいのではないかとの見方がある。
5月9日に首都のプレトリアで、就任宣言が行われた。就任宣言には、各国から約5000人の首脳、閣僚らが出席した。翌10日には新内閣の閣僚を任命。各省庁や政府部局の調整を行い、貧困解消や福祉などの重要な計画を決定する「国家計画委員会」のトップには、マニュエル前財務大臣が選ばれた。また、経済発展省や観光省などを含む4つの省が増設されたほか、旧来の省2つを4つに分割したり、機能や名称を変更したりするなど、省の再編も行われた。
4月3日(金)、中曽根外務大臣は、北東アフリカ・ジブチ共和国のユスフ外務・国際協力大臣と会談を行った。
会談で、両外相が「ジブチ共和国における日本国の自衛隊等の地位に関する日本国政府とジブチ共和国政府との間の書簡」の署名、および交換を行った。これにより、ソマリア沖で海賊対策として護衛を行う海上自衛隊員らが円滑に活動できるよう、方的な地位を確保することが可能になった。この3日後には、ソマリア沖、アデン湾で活動している海上自衛隊の護衛艦2隻が、ジブチ港に入港した。
またこれとは別に、食糧援助と一般無償資金協力「ラジオ・テレビ放送局番組作成機材計画」に関する交換文書に、両外相は署名した。食糧援助は、ジブチの厳しい食糧事情緩和のためのもので、供与額は8億6000万円となっている。また、一般無償資金協力は、唯一の放送局(国営)に対し、放送設備や機材の調整を行うために必要な資金を供与するもので、その額は9億2500万円である。ジブチは印刷媒体よりもテレビ放送が主要な伝達媒体であり、教育、保険、農業、産業において重要な役割を担っている。
外相会談において、日本政府は、今後もジブチを基本的な活動拠点にしたいとの考えがあることを伝え、ジブチ側も必要なときには協力することを述べた。また、ジブチとしても、ソマリアの海賊問題に積極的に取り組みたいと考えており、日本にも協力してほしいとしている。
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ベナンの出版物の現状
ベナン関連の書籍を探そうと思うと、ベナンにある本屋に行くのが最もよい。数が多く、日本やオンラインショップではお目にかかることのできない本とたくさん出合えるからだ。ただ、ベナンの公用語はフランス語であるため、書籍のほとんどがフランス語表記である。フランス語に堪能な人を除いて、何が書いてあるのか理解できない。まれにフランス語と英語の両方を併記している本があるので、フランス語ができない人は、せいぜいこのような本を手にとって読むしかないのがつらいところである。日本語の本は、言うまでもなく販売されていない。フランス語、英語以外の外国語の本となると、スペイン語、ドイツ語などの欧州の主要言語の学習書、辞書については販売されている。中国語、韓国語など、アジアの言語の本は見当たらなかった。
ところで、ベナンで売られている多くの本の価格は日本並みの価格である。特に、カラーページの入った本やカラー表紙の本は、1冊 5000CFA(¥1000)以上は当たり前で、中には数万CFAもする本も売られている。ベナンで製本した白黒刷りのみの比較的安い本もあるが、それらはむしろ少数である。現地の人でもまあ買える価格のものといえば、新聞300CFA、薄いマンガ500CFAなどがあるが、このような価格でも庶民には少し割高感があり、ここに挙げたもの以外の本は高級品といってもよいだろう。多くの教科書も例外ではなく、教科書が1冊数千CFAもする。そのため、市内や大学構内では、教科書や辞書を中心に路上で古本が売られている。限られた予算で本を手にしようと思えば、こういった古本を利用するのだろう。
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今年3月に、2年半ぶりにベナンを訪問した。2年半前と比較して、一部のところでは大きく様変わりしていた。特に大きく変わっていたのは、道路だった。
ベナン最大都市のコトヌーでは、市内の一部の道路が拡張され、中央分離帯や照明、白線などが整備された道路が増えていた。また、舗装が痛んで凸凹になっていた道路も少なくなり、新たにアスファルトが敷かれている。さらに、コトヌーの商業地区であるガンヒと、大使館街や空港に通じるカジェウンとに、ドイツの援助で建設された立体交差の道路が2箇所完成していた。今年1月から使われ始めたこの立体交差は、渋滞解消に大きく貢献している。日本では当たり前の立体交差だが、ベナンでは最近になって、交通量、都市人口が増加したため、立体交差の必要性が高まってきたのではないだろう。
現在、コトヌー郊外のゴドメーには、中国の援助で立体交差の建設が始まっている。このゴドメーは、ナイジェリアからトーゴ、ガーナ方面に向かう道路と、ベナン北部やニジェール、ブルキナファソに続く道路とが交わる大きな較差点がある。しかしながら、現在のこのゴドメーの交差点には信号機が無く、日本の都市部の駅前にあるようなロータリーの形状で車の流れを誘導している。そのため、全ての車が必然的に減速せざるを得ず、交通量が多くなると停止することもしばしばある。特に朝夕のラッシュ時の渋滞が深刻な問題で、数キロも車の列が続くこともある。警察官が誘導して、事故が起こらないように配慮はなされているが、渋滞を解消する解決には至っていない。現在建設中の立体交差が完成すると、現在の渋滞がどれだけ解消されるものか、注目したいところである。
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