Category "メッセージ" の記事一覧
僕がベナンで生活している時は、ゾマホンが建てたジャパンハウスという建物に住んでいた。
ベナン コトヌー国際空港から車でおよそ10分のところにその建物はあり、敷地内に「たけし日本語学校」があった。
部屋は4部屋あり、日本人が住んでも不自由がないようにと、お風呂にはバスタブがあり、ベナンではめずらしく温水が出るようになっていた。それで驚くことなかれ、日本のニュースも視聴したいだろうと、フランスから技術者を呼んで、パラボラアンテナを設置し、いつでもNHKのニュースが視聴できる環境になっていた。
そこでのゾマホンのコメント
「フランスから技術者を呼ぼうとして電話をすると、エールフランスのビジネスクラス席を準備しないとベナンには行かないと言われたよ。」
・・・これがフランスとベナンの関係なのかと、それを聞いた時、僕はゾッとした。
さて、いつもは日本にいるゾマホンが、年に6回以上ベナンに帰国し、自分が建てた小学校などに足を運び現地調査をしていた。
現地調査の目的は、村人たちの意見を聞くためだった。
それは、小学校を建てるということは、そこに生活している人々にもかなりの面で影響するからだ。
そのため、ゾマホンは一つ一つの村を訪ね、村人(特に長老)に最大限の敬意をはらい、時間が許す限り村人の話をじっくり聞いていた。
「小学校建設」とひとくくりに言ってしまえばそれまでだが、想像以上に様々な事に気をつかわなければならない。
それは、一番最初にゾマホンが「たけし小学校」を建設しようとした際、小学校建設に反対した住民が途中まで工事が進んだ小学校を焼き討ちにされた経験があったためだ。
村にはそれぞれ伝統教育が根付いている。それは日本の職人さんの世界と同じように、職業からなる徒弟制度のようなものだ。
その「伝統教育」と小学校という「近代教育」とを連立させていかなければいけないわけだが、近代教育には反対も多い。なぜなら徒弟制度と違い、近代教育はまったくの生産性がない教育だからだ。
小学校が無い田舎では、「近代教育」の反対があり、一方でベナンのエリート層にとっては、平等に近代教育が施されると、自分たちの特権が奪われると思い、反対する人々がいた。端的に言うと、教養が身につくと、エリート層は国民のコントロールが難しくなるからだ。
それは日本でも言えることであり、僕たちは字が読めるし、書けるから、テレビのニュースも聞けるし、意見したい時は、文字で訴えることもできる。(だから日本の内閣は苦労する。)
そんな両方に反対されてまでも、自分の稼いだお金を教育のために使おうとしているのがゾマホンだった。普通だったら、「バカバカしい。俺だけはあんな人間にならないでおこう。」と思ってもおかしくはない。でも、それをしない。それがゾマホンだ。
村人、一人一人に教育の大切さを伝え、そしてエリート層には、なるべく彼らの鼻にかからないよう、無駄に敵に回さないよう、気を配っていた。
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今年もベナンから1名の留学生を日本に迎えました。名前はイダヤツ・ザッカリさん。
今日から1年間、共立女子大学様でお世話になります。
共立女子大学様には、今年の留学生を含めて、これまで6名受入れていただいています。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます。
・・・・・
僕は、今日来日したイダヤツさんに会ってきましたが、若干緊張気味の顔でした。
彼女はベナンから約20,000円を握り締め、フランス経由で日本にやってきました。
どんな気持ちで、海を渡ってきたのかな~と想像しました。
僕はイダヤツさんのような留学生に会うだびに、その佇まいに清清さを感じ、と、同時にどんな困難な道に出会っても、彼女たちを励みに、自分も頑張ろうと思うのです。
皆さん、イダヤツさんの事、これから1年間よろしくお願いします。
ベナン共和国の大統領の任期は5年。
NPO法人IFEがベナンで活動し始めた時の大統領はマチュー・ケレク大統領だった。
ケレク大統領の偉業は、インターネットでも色々検索できるが、そんなケレク大統領とゾマホンの絆は深い。
2002年にゾマホンに国民栄誉賞を与え、そして2004年には大統領特別顧問として自らの傍においた。
中国に6年留学、その後1994年から今日にいたるまで日本で生活しているゾマホンを大統領特別顧問に就任させたのは、ベナン共和国でも全くの異例の出来事だった。
超学歴社会、そして、一般国民と一部のエリートで完全に分かれているベナンにおいて、フランスの大学での留学経験が無く、ダサヅメという田舎育ちのゾマホン。さらに就任当時、ゾマホンの年齢は40歳だった。
そんな彼を特別顧問に就任させるのは、国内でも大きな反発があったが、ゾマホンの国に対する貢献がケレク大統領に信頼された。
いくら日本のテレビでちょっと有名になったからと言って、ベナンはそんな事で国の重要な役職を与える事はない。何しろフランスの旧植民地のベナンは、超保守的な国なのだ。
ケレク大統領はゾマホンを登用する事で、真面目に国の事を考えている人に対しては、いかなる身分であろうと、国のリーダーになれる事を国民に対して示したかったのだと思う。
愛情あり、ユーモラスあり、強い信念ありの偉大な政治家だった。
そんなケレク大統領は、ベナン共和国憲法に法り、大統領を三期努めた後、退任した。絶大な人気があったにもかかわらず・・・
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はじめに・・・
ゾマホンさんが駐日ベナン共和国特命全権大使に就任しました。
ゾマホンが大使として落ち着くまで、「きときとアフリカ」はお休みをしておりました。申し訳ございません。
これからは、なるべく頻繁に更新してまいります。
つたない文章ですが、どうか読んでいただけましたら幸いです。
一昨年、もう外は寒くてコートを着始めた頃だった。
あれは忘れもしない新大久保駅改札前の蕎麦屋での事だった。
ゾマホンさんから「私はもうやるしかないと思っています。」と話を受けた。(僕らの仕事の打合せは、中央線、総武線沿線のホームか、余裕があれば蕎麦屋などに入って仕事の打合せをしていた。)
ベナン共和国においてゾマホンさんは、決して裕福な家庭で育ったわけではなく、(日本国内の貧富の差とは比べ物になりません)努力の塊でここまでやってきた人だった。
そんなゾマホンさんは、ベナンの多くの人々の憧れでもあり、人気もあった。そして、ゾマホンさんはこれまで何度も、国から政治家としてのオファーがあったが、断り続けてきた。「自分には他にやる事がある。」と言って、頑として6畳の風呂なしのアパートに住み続け、断ってきた。(どこかの国とは大違いかもしれない。)
そのお陰で、小学校を建てたり、井戸を掘ったり、給食を提供することができた。もし、国からのオファーを受入れていたら、きっと今のIFEの活動はなかったと思う。
しかし、IFEの活動が広がれば広がるほど、国の人々と大きな意識の差が生まれてきた。
それゆえ、このタイミングで大使にならざるを得なかったというのが実情だ。僕はとうとうこの日がやってきたか・・・・と半ば信じられない気持ちで、ゾマホンさんの話を聞いていた。ゾマホンさんもかけ蕎麦を注文したものの、ほとんど口にすることができないようだった。
これまで一緒に歩んできたゾマホンさんの立場が変わってしまう。
大使となれば公人になり、IFEからも離れなくてはいけない。
これまでゾマホンさん中心で活動してきたIFEがどうなっていくのか・・・
僕はその時、嬉しいという気持ちよりも、寂しさと不安で心がいっぱいだった。
そして、一昨年から今年の7月まで、これまでに経験した事が無い、険しい道が始まった。
続く
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ゾマホンさんのお母さんが亡くなって早7年になった。3月2日がお母さんの命日。
ゾマホンさんのお母さんがご健在の時の、ゾマホンさんとの国際電話のやりとりが面白かったのをいまでも思い出す。
ゾマホンさんは1週間に最低1度はお母さんに電話していたのだが、必ず最後はお母さんに結婚の話をされる。「この前、市場にいったら、○○さんの娘さん、すごくよかったよ~」とか。そして、ゾマホンさんはいつもお母さんに「もういいよ。わかった、わかった。」と頭をさすりながら、電話で話す。
その光景を見るたびに、とても愛らしかった。
僕は一度だけ、ゾマホンさんのお母さんに会った。それはそれはとても静かな方だった。
ゾマホンさんはお母さんが大好きだった。
ゾマホンさんは、小さい頃お父さんを亡くし、お母さんの元から離され、養子になって中学校に行っている。
養子先では、いつも車の中で寝泊りをし、そして、街灯で勉強を続けていた。
でも、ゾマホンさんは養子として、お母さんのもとから離れても、ずっとお母さんが好きだった。
そして、ゾマホンさんが大きくなり、国費留学生となり中国に留学する。ある時、故郷に凱旋帰国した際、ゾマホンさんは驚いた。なんとお母さんは親戚の家の台所で寝泊りをしていたからだ。
それを見たゾマホンさんは、なんとかお母さんに楽な暮らしをさせてあげたいと誓った。
それからゾマホンさんは日本に私費で留学をし、文章では書き表せないくらいの、様々な経験をした。
そして今から7年前の3月2日、ゾマホンさんが大好きだったお母さんは亡くなった。
ゾマホンさんはお母さんの最後に立ち会うことができなかった。
ただ、亡くなる数か月前、お母さんと一緒に撮った写真がある。
当時、日本語教師として赴任していた石田さんが撮影したものだが、僕はこの写真がゾマホンさんの全てを語っている気がする。
ゾマホンさんは僕によく言う。
「私のお母さんは、字が読めない、書けない。でも私は決してお母さんをバカにしたりしません。
私がどんな立場になろうと、お母さんはお母さんです。お母さんは私の神様です。」
「私はお父さんとお母さんを超えられない。なぜなら私の今の年齢の時に、お父さんとお母さんは、立派に子供を育てていたから。私は一生超えられない。」
ゾマホンさんは、講演会などでも子供たちに
「本当に国際人になりたかったら、まず親孝行しなさい。いつもいつもお父さん、お母さんに感謝の気持ちを持ってください。あなたが今着ている洋服は、あなたが働いて買ったものではないよ。」 ・・・と。
・・・ゾマホンさんのお母さん、これからもずっと見守っててください。
そして、このブログを読んでくださっている皆様、それぞれ親子関係はいろいろあると思います。
それはそれとして、(私も自戒の念を込めて)お父さん、お母さんを大事にしましょう。
僕は明日、お母さんに電話します。
バスケットボール選手、マジック・ジョンソンが、スラム街の黒人の子供たち送ったメッセージ。
僕が22歳の時、この詩に背中を押され、IFEの活動をはじめました。
『君には無理だよ』という人の言うことを、聞いてはいけない
もし、自分でなにかを成し遂げたかったら
出来なかった時に他人のせいにしないで
自分のせいにしなさい
多くの人が、僕にも君にも「無理だよ」と言った
彼らは、君に成功してほしくないんだ
なぜなら、彼らは成功出来なかったから
途中で諦めてしまったから
だから、君にもその夢を諦めてほしいんだ
不幸なひとは、不幸な人を友達にしたいんだ
決して諦めては駄目だ
自分のまわりをエネルギーであふれ
しっかりした考え方を、持っている人でかためなさい
自分のまわりを野心であふれ
プラス思考の人でかためなさい
近くに誰か憧れる人がいたら
その人に、アドバイスを求めなさい
君の人生を、考えることが出来るのは君だけだ
君の夢がなんであれ、それに向かっていくんだ
何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ
何故なら、君は幸せになる為に生まれてきたんだ
ご連絡
現在、ベナン共和国では、インターネットが非常につながりにくくなっております。
たけし日本語学校の日本語教師として赴任されている永田先生、笠井先生のお友達、関係者様にはご不便をおかけしておりますが、ご了承ください。
先ほど現地にいる永田先生に国際電話をかけると、ちょうどインターネットカフェにいましたが、まだインターネットがつながらないとのこと。
もう1ヶ月もベナン全土でこんな状態が続いています。
日本では当たり前のようにつながっているから、つながらないという状態は想像できないかもしれません。ちなみに現在ベナン国内では、全くインターネットにつながらない訳ではなく、時々何かの拍子に一瞬つながったりするので、これがまた精神的に苦痛になります。
先生方は、最低週2回、インターネットを利用します。なぜ2回なのか。それは通信費が高いからです。日本で暮らしている人々には、その不便さは、もはや想像できないかもしれません。
特に近年はスマホなどが普及し、どこでもネットがつながる状態になっているから、「つながらない」という状態自体、数年前は日本人でも我慢できたけれども、いまの日本人には苦痛で耐えられないかもしれません。
だからスマホなどを子供の時から当たり前のように使っていると、大人になっていわゆる途上国に行って、その先でインターネットがつながらないとなると、精神的に耐えられないかもしれません。いや、その前に全世界どこでもネットがつながれば別ですが・・・。
話は飛びますが、青年協力隊で海外に行く隊員の研修では、3ヶ月間、携帯電話使用禁止などの研修を出発前にしたほうがいいかも・・・などと思います。
さて、ベナンの状況に話を戻します。
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ゾマホンは2001年からこれまでに、ベナンで小学校を6校建設してきました。正しく伝えると、ゾマホン個人で建てたのは3校。残り3校は日本人の方に寄付していただきました。
以前、テレビでカンボジアに小学校を建てるプロジェクトを観ました。いろいろな人がオークションで集めたお金で建てるといった企画です。ちなみにベナンでは「あいのり」という番組のおかげで小学校が1校できました。やっぱり、小学校は大切です。
しかし、ゾマホンと一緒に活動してきて、小学校を建設する上で、忘れてはいけない大切な考え方がいくつかあります。その中でも以下の2つは重要です。
-
「建設した小学校に通う子供たちに対してどのような教育を行うか。」を十分考える。
-
建設後の学校の補修(保守)
恐らくふたつ目の項目は(?)が付く方も多いと思いますのでお話します。
学校は建造物なので、必ず壊れてきます。当たり前です。ベナンでは日本のように建築技術や建築資材が高品質ではないので、壁なども崩れてきます。それを修理するのが一番大切なのです。
・・・それはなぜか。
小学校は、教育を普及させるシンボルであり、象徴です。その小学校の建物が壊れることは、教育普及の崩壊を意味します。小学校を建設した地域の住民にいたっては、崩れてきた小学校を見て、「やっぱり小学校は必要ない。無理だった。」と思うようになるからです。
そもそもなぜ、小学校が増えないのか、ざっくりとベナンの様子を紹介します。
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6.ビジネスチャンスをつくる
私は、日本の大学に留学できる道を広げることと同時に、ベナン国内の産業も発展できればと願っています。いまIFEで取組んでいるのが「Feel Peace」というプロジェクトです。現在「Feel Peace」の活動はベナンで採れるシアバターを日本に輸出し、ベナンの産業を発展させるきっかけを作るというものです。シアバターを収穫、加工、販売という単純なものですが、ひとつひとつはとても細かい仕事を求めます。それは日本というお客様と商売をするからです。そしてその中で、新たな仕事も生み出していきたいと思います。
例えば、シアバターが収穫できる地域から、コトヌーの港までシアバターを運ばなければいけませんが、そこにも「運ぶ」という仕事が生まれます。そういう「新しい仕事」を生み出し、少しずつベナン国内の産業が発展していけばと思います。
7.ビジネスを通して求めること <お金がないといわない>
仕事をはじめるにしても、やはりお金がないと難しいものです。それは私も理解しています。ただし、お金がないと、何もできないかといわれると、そうではありません。
お金がなくても、この仕事は必要だと思えば、まずできる限り自分の力で挑戦してみてください。やってみることで、周囲が理解し、あなたに協力するかもしれません。
「○○という仕事を考えたのだが、お金がないから日本人に支援して欲しい。」
最初からその気持ちがあっては、絶対成功はしません。まずは実行すること、そしてその情報を発信すること、それが一番大切です。
8.日本の武士道精神 守破離(しゅはり)
最後に少し難しいことを話します。
私は昔から武士道というものを学んできました。そこで一番大切なのは「守破離」という考え方です。この考え方は、人から何かを教えてもらうとき、自分が何かを学ぶ時の精神です。
「守」とは・・・
教えてもらう先生(相手)の言うことを、100パーセント守り、実行すること。
(例)先生から「○○してください」といわれたとします。その時に「それはベナンの考えと違うからできません。」というのではなく、まずは先生の言われた通りに行動することです。心の中で“違うかな~”と思ってもOKです。まずは言われたことを100パーセント守り、行動することです。これが「守(しゅ)」です。
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3.日本でのベナンのイメージを変えることが大切
日本にベナンの正しい情報を伝えることは、とても大切なことです。
そうしないと、正しい交流ができません。そのことを皆さんも理解してください。
正しい情報とは何か。私は基本的には統計など数字で表すことができるものが最低限必要だと思います。数字は客観的に相手に伝わるからです。
それと、歴史などの史実です。
私がベナンに行って、残念と思った事があります。それは皆さんがインターネットを使う時、平気で「Yahoo! France」を利用している事です。
なぜ「Yahoo! Africa」はないのか?私は不思議でなりませんでした。どうして皆、積極的にアフリカの情報をインターネットで配信しないのか、残念に思いました(インターネットの環境が良くないから?それは日本語で「言い訳」といい、決して良いことではありません)。
日本でのアフリカとはヨーロッパを経由した情報しか入ってきません。それでいいのでしょうか。
4.ベナンを貧しい国として日本に助けを求めるのは×(ダメ)
私は日本人ですが、同時にベナン人としてのプライドも持っています。私はベナンという国に関われたことを誇りに思っています。ベナンは素晴らしい国だと思っています。
ただし、北部の田舎に行けば、水道も電気も通ってない地域もあります。教育も受けられない現状もあります。
私は日本でベナンを紹介するときに、北部の田舎の話もします。そうすると日本人は「同じ人間として助けたい。」という気持ちがわき、井戸を掘ったり、子供達に給食を提供したりと支援の手を差し伸べてくれます。もちろん「たけし日本語学校」の授業も無料で受けられるということは、日本から支援をしているからです。
でも、私は心では満足していません。ベナンの貧しさを日本人に伝えて、支援してもらうだけの国では、ベナン人としていけないと思うからです。
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