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シリーズ・ベナンの歴史(7)17世紀後半から18世紀のアボメー王国

アカバ王(1685-1708)の時代

ウェバジャに敵意を持っていたダンという人物がいた。ダンを排除するために、ウェバジャは息子のウェッス(Houessou)をダンのもとに行かせ、ダンから半ば強制的に何度も土地を奪った。ダンは耐えかね、土地を奪いに来るウェッスを殺害しようとしたが、失敗した。ウェッスは怒ってダンを殺害し、建物を支えるための石をダンの墓の上においた。この建物は、「ダンのお腹の中という意味」の「ダノメ(Dan Homè)」となった。ダノメは、後にダオメーという言葉にかわった。

ウェバジャは死ぬ前に、後継者に息子のウェッスを指名した。1685年、ウェッスが王位に上り詰めたのだが、このときすでに50歳になっていた。ウェッスは自分自身を、ゆっくりと、かつ確実に獲物を狙うカメレオンに例え、アカバ(Akaba)と名乗った。また、刺繍が施された父のサンダルを受け継いだ。

アカバは、ウェメ川の東岸に住んでいたウェメ人と戦争をした。戦争の末期に、アカバは天然痘にかかってしまい、1708年に、10歳の息子、アボ・ササ王子を残して死亡した。アカバの死後、アボメー軍は勝利し、王国はそれ以後ウェメ地域まで広がった。

アガジャ王(1708-1732)の時代

1708年にアカバ王が死亡したとき、王子のアボ・ササ(Agbo Sasa)はまだ10歳で幼かったため、王国の統治は相続人であったおじのドッス(Dossou)が引き継いだ。ある日、若いアボ・ササ王子が王位を自分に譲ってくれないため、ドッスのもとに行き王位を要求した。ドッスの答えは、王位を返さない、ということだった。

アボ・ササは失望した。しかも、アボ・ササ支持する者がいなかったので、アボ・ササはアボメーを出ることにした。ドッスはこれを機に、問題無く自分が王として君臨することができるようになった。ドッスはアガジャ(Agadja)という名前に変えた。このとき、彼は20歳前後だったのだが、以後王国を拡大するため数々の戦を行なった。

アガジャは、勇敢な騎馬民族で数も多いオヨ王国(現在のナイジェリアの一部)の軍事力を打ち破ることができずにいた。アガジャの軍隊が虐殺されるのを防ぐため、彼は軍隊を西部へ逃がした。アガジャの軍隊は虐殺されずにすんだのだが、アボメーの王はオヨの王に、41人の青年男女、銃41 丁、火薬の樽41個、雄牛41頭、ヤギ41頭などの品々を、1712年以降毎年献上することになった。事実上、アボメー王国は、オヨ王国に従属することになった。この取り決めは100年以上もの間続いた。

アガジャは1724年にアラダ王国を占領した。3年後、大西洋岸に位置するウフォン(Houffon)王のサヴィ王国に向かった。アガジャは策を練り、娘のナグェゼをウフォンと結婚させた。ナグェゼは、父のアガジャにウフォンの軍事力について報告したほか、サヴィ王国の大砲用の火薬を湿らせた。アガジャ軍はサヴィの街に侵攻し、ウフォン王の軍隊に攻撃した。ウフォン王の軍隊は反撃できず、ウフォン本人は殺され、サヴィ王国はアボメー王国に占領された。この戦いの際、アガジャは「アマゾネス(amazones)」とよばれる女性部隊を戦わせて、戦いでの勝利をもたらした。

アガジャ王は王国を海岸部へ広げようとしていた。これは、2つの背景がある。1つは、サヴィ王国など大西洋岸の王国が、アボメー王国などの内陸国から捕虜を買っており、足りない場合は内陸の人間を拉致して奪っていくことがあった。アガジャ王はこれに反対し、アフリカ人の輸出を止めることを希望していた。もう1つは、西欧の品物を購入する際、直接ヨーロッパ人と取引をしたほうが、海岸の王国を経由して買うよりも安くつくためである。オヨ王国に毎年多くの品物を献上しなければならなかったので、アボメー王国が損をしないための戦略だったとされている。また、オヨ王国は絶えずアボメー王国に圧力をかけており、これに対抗するために多くの西欧の武器が必要であった。そういったことから、海岸部へ国土を広げようとしたのだ。

こういったことから、アボメーの王は奴隷を売りながら、ウィダでフランス、ポルトガル、イギリスから持ち込まれたヨーロッパの品物、特に鉄砲や弾薬を買った。アガジャは1732年まで王に君臨し、1740年に亡くなった。

テベス王(1732-1774)とピングラ王(1774-1789)の時代

テベス王は、40年間権力をにぎっていたにもかかわらず、特に注目すべきことは何も果たさなかった。テベスは、自分に対して陰謀を行なうものを排除した。テベスはザ(Zâ)の住人に対する戦いでは勝利を収めたが、マヒ人、ヨルバ人とポルトノボの王らに対する戦いには大敗した。テベスは王子のグニャンスヌに取って代わられた。

テベスの死後、息子のグニャンスヌは1774年に王となり、ピングラ(Kpingla)という名前をつけた。ピングラは、特にウェダのポポ人に対して戦争を行ない、アバムの首をはねた。 ピングラはエペの街と、奴隷貿易でウィダの競合相手でもあったバダガリー(現在のナイジェリア西部)を破壊し、銅製の大砲2台を獲得した。

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