本文へジャンプする

NPO法人IFE

アフリカニュース

Published on

スワヒリ文化の地を訪ねて ザンジバル島訪問

スワヒリ文化・・・世界史の教科書でも取り上げられることのある、数少ないアフリカに関する世界史の事項の一つである。「スワヒリ」とは、「海岸、岸辺」を意味するアラビア語の単語「サーヒル」が変化したものである。そして、スワヒリ文化のスワヒリが意味するところとは、ソマリア南部からケニア、タンザニア、モザンビーク北部までのアフリカ東部の海岸を指すのである。この地域には、アフリカ固有の文化とアラブ・イスラム文化が混合した独特の文化が存在する。

ザンジバル島ストーンタウンの街並みこれらの地域は、8世紀ごろに始まったとされるインド洋貿易で栄えることになった。当初は東アフリカ沿岸部の諸都市と、アラビア半島との交流といった小規模のものであった。後に東アフリカ沿岸部の諸都市では、内陸部との交易が始められた。象牙や金などのアフリカ内陸部の産品が、スワヒリ沿岸諸都市を経由し、アラビア半島にとどまらず、ペルシャ、インド、スリランカ、中国等とも貿易が行われた。こういった地域からの産品もまた、アフリカにもたらされたのである。

こうしたインド洋を拠点に広がった貿易で栄えた場所の一つが、ザンジバル島である。ザンジバル島は、タンザニアの東方40kmの沖合に浮かぶ島で、インド洋貿易が行われていたころは、拠点港の一つとして大きな役割を担っていた。この島は15世紀末からはポルトガル、16世紀からのアラブ(オマーン王国)、19世紀以降のイギリスというように、多くの国の支配を受けてきた。そのため、特に島内のストーンタウンというエリアでは、アフリカ、アラブ、ヨーロッパのそれぞれの様式が混在した建築を垣間見ることができる。このような独特の街並み、および景観は、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

アングリカン教会しかし、この島にも負の歴史があったことを語らねばならない。一つは、奴隷貿易である。奴隷貿易というと、ヨーロッパ人による大西洋で行われた三角貿易も挙げられるが、ザンジバルでは、アラブ人による奴隷貿易が行われていた。ザンジバル島内にあるアングリカン教会では、奴隷貿易に関する展示施設があり、無料のガイドが英語で案内、解説してくれる。奴隷貿易で使われた鎖、各種資料のほか、奴隷として売られるアフリカ人が3日間閉じ込められていた地下室が2部屋残されていた。小さな窓があるだけのこの部屋は、ものすごい湿気があるため、数秒じっとしているだけでも汗が噴き出すような環境である。長くいれば、体調を崩しかねないほどジメジメしている。こういった過酷な環境でも病気にならない人間は体力があるとされ、高値で奴隷として取引されたのである。ベナンのウィダにも、奴隷にするアフリカ人を閉じ込めた窓のない施設があったが、現存はしていない。おそらく、ベナンでも似たような状況の部屋に閉じ込められていたのだろう。

元ジャバニーズバー(元からゆきさんの家)もう一つの負の歴史は、ジャパニーズバー、別名からゆきさんの家あったことである。まだ公娼制度が存在した頃、日本から売春のために売られた女性ら数十名がザンジバル島にたどり着き、ここで生活していたのである。現在でも彼女らの家が残されているが、現在は現地の人が住んでおり、建物の外観のみしかうかがうことができない。貧富の差が非常に大きかった戦前の日本では、不幸にもこのような境遇にあった女性がいたのである。

ザンジバル島は、特にヨーロッパ人にとって、ビーチリゾートとしても有名であり、7月、8月には多くの観光客が訪れる。そうした華やかとも思えるザンジバル島だが、一方で、奴隷貿易やジャパニーズバーなどといった負の側面も混在しているのである。

ザンジバル島の町並みは立派な歴史遺産であり、また海もきれいでリゾートとしても非常によい場所である。こういう点に限らず、ザンジバルで起こった負の歴史についても、もう少し着目すべきものがあるのではないだろうか。

« 前の記事 |

ページトップへ戻る

サイトマップ