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シリーズ・ベナンの歴史(8)18世紀後半から19世紀のアボメー王国
アゴングロ王(1789-1797)とアダンドザン王(1797-1818)の時代
アゴングロ(Agonglo)はピングラ王の後継者であった。アゴングロ王は、国民を大いに喜ばせる改革を行なった。ウィダの商業を圧迫していた税金を免除したほか、囚人らの処遇を改善した。軍事面で、アゴングロ王は、多くの女性兵士を配置した。また、アボメーの南方のワチ人に対して戦争をした。
アダンドザン(Adandozan)王は、国民を虐待し、奴隷として母親を売るなど、残酷なことをした王であった。アダンドザンは王国の法律をやぶり、またマヒ人やヨルバ人との戦いにも敗れた。大臣らや軍人ら、フランシスコ・ドゥ・スザは王位を狙っていた弟のガッペ(Gakpé)を支援した。時の首相は、王のみが履くサンダルをアダンドザンから剥奪し、ガッペがそのサンダルを履いた。以後、アダンドザンは死ぬまで、禁固刑に処せられた。
ゲゾ王(1818-1858)の時代
アダンドザンを王位から降ろしたとき、ガッペが王になり、名前をゲゾ(Guézo)とした。このとき、弱冠23歳だった。顔色は明るく、身長は高く、とても強い王であった。
王として君臨していた40年間、ゲゾは徴兵された兵士や女性部隊のアマゾン(※1)を再編成した。彼はマヒ人とヨルバ人との戦争で勝利し、これまでアボメー王国にとって重荷であった、オヨ王国に支払う重税を廃止した。その後、サベ王国を攻撃して街を焼き払ったほか、コムラン王が支配するトーゴのアタパメも攻撃し、コムラン王は囚人にされた。
1851年、ゲゾは現在のナイジェリアにあるアベオクタの戦いで大敗した。ヨルバ人の街であったアベオクタは、しっかりした城壁で守られており、ゲゾはここを攻略することができなかった。この戦いで、アボメー軍12,000人のうち3,000人以上の兵力を失った。
ゲゾは、王国を豊かにし、かつ飢餓を起こさないよう、体系的に経済を発展させた。ゲゾは、パーム油のプランテーションや、マニオク、とうもろこし、バナナの木、落花生の栽培を奨励した。また、ゲゾはフランスと友好条約を結び、アボメー王国とフランスとの商業取引を増大させた。さらに、ゲゾは国民の不平不満を聞き、時に公正な裁判をも行なった。
1858年、軍のキャンプにおいて、ゲゾはヨルバ人に襲われ、数日後に死亡した。全国民が、王の死に涙し、40年に及ぶゲゾの統治時代が終わった。ゲゾは、歴代アボメー王の中で最も強い王の一人だと言われている。
(※1)日本の書籍の中には、アマゾネスと表記するものもある。
グレレ王(1858-1889)の時代
ゲゾの息子のグレレ(Glé lé)王は、大きくしっかりした体つきをしていた。ヨルバ人に殺された父の仇を討ち、また奴隷を捕まえるために、アボメー王国の敵に対して数々の戦争を行なった。
グレレが率いるアボメー軍は、難攻不落の城壁があるアベオクタで大敗した。しかし、アボメー軍はゲゾが殺された場所であるケトゥを占領し、焼き払った。
グレレは、威圧しようとするイギリスに抵抗し、フランスに対してコトヌーに入ることを認めた。フランスはコトヌーに軍隊を置き、そして商業全体をコントロールしたかった。フランスの大使、ジャン・バヨル(Jean Bayol)は、コトヌーに関する保証を得るためにアボメーに行った。しかし、グレレ王は重病にかかり、代理である王子のコンドはバヨルを快く受け入れず、バヨルが要求したことを拒否した。数日後、グレレは亡くなった。